『 治水の事は余程よく気を付けて貰わなければいけませぬぞ 』
勝海舟[2](1823~1899 / 江戸・明治の政治家 従五位下・安房守 日本海軍の生みの親 伯爵)
勝海舟は多弁で知られました。その話術は、鋭い風刺と毒舌を交え、難しいことを分かりやすく、深く面白く相手に伝えたといいます。
七十歳を過ぎた晩年になると、多弁はさらに磨きをかけていきました。「ホラふき」とも噂された縦横無尽な放言に、熱心な勝海舟信者だった徳富蘇峰といった面々でさえ辟易としたそうです。
今日は、そんな勝の最晩年期の放言を一つ紹介しましょう。
… … …
今から126年前の1896年(明治29年)、日本各地には連日のように雨が降りました。とくに7月と9月に集中豪雨が続き、尾濃(尾張・美濃=岐阜県の西南部)を中心に未曾有の大水害をもたらしました。
濃尾平野を流れる木曽三川(木曽川、長良川、揖斐川)は空前の大洪水となり、死者207人、全壊流失家屋14,098戸、堤防の決壊3,286か所という甚大な被害となりました。
この水害の直後の1896年(明治29年)9月16日の「国民新聞」紙上に、「茶話」と題する、勝海舟翁の発言を聞き書きした一片の記事が掲載されます。
勝は、明治維新後に建設された堤防と江戸以前の水害対策とでは、そもそも造りが大きく異なり、“ナマイキなことをヌカス工学士とか何々博士”などがいなかった旧幕府時代には、少しの大雨で大洪水になることはなかった、と新政府を批判しながら、
お前達に徳川時代の話をして聞かせると、じきにけなして、なんだあんな旧弊時代と軽蔑するけれども、これは大問題だよ。 ”
と述べています。
たいへん面白いので、長文ですができるだけ原文のまま、読みやすく現代文に少し手直しして紹介します。
曰く―――。
今度の大水はどうだ、東海道から近畿中国は申すまでもない、東北までもえらい目に逢っているではないか。
河の水が氾濫して、堤防をひき裂いたり、湖水が溢れ出して、市街を浸したりしたから堪らないよ。そこで田畑の損害、畜類の死んだのは、一時眼をとじて算外としたところで、人間の死んだのはどうするか?
田畑の損害は、銭金を出して救ってやれば、それで先ず済むとしたところで、人間の死んだのはどうするか? どうしてやってやるか?いくら御上(おかみ)でも、これには仕方があるまい。
ましてや、諸処方々(しょしょほうぼう)の被害地へ、やれ百万両でござれ、やれ五百万両でござれ、やれ一千万両でござれ…と、是非とも損害の多寡によって救助金を出してやらねばなるまい。この金は何処から出すか。
なんだえ洪水で侯の、やれ大水で侯のと、大層に騒ぎ立てて、その狼狽さ加減は、まあどうだ。おいらの眼から見れば、これしきの事は少しの放尿に過ぎないじゃないか。どうだ。
権現堂の堤が切れたと今日聞いたよ。ここが切れるときは、本所深川は葛地(まっしぐら)に押せ来る。この水のために大難儀をしなければならないじゃないか。
幕府の頃はどうだい。天明の大洪水でも、天保の大洪水でも、今の様に少しの放尿位の水になんだ。大層もない。河川氾濫堤防決壊など、難しく事を騒ぎ立てる様なことはただの一度もないが…どうだ、降参したろう?
それだからおいらが言わないじゃない。とうの昔から言っているじゃないか。
「治水の事は余程よく気を付けて貰わなければいけませぬぞよ」と。どうだ少しばかりの水に狼狽(うろたえ)る様ではならないから、言ってあるのだ。御上の人は今になってはじめて目が醒めたろうよ。見なさい天明の時や、天保度の大洪水でさえも、何の屁の河童と、幕府は済ましていたもんだよ。また済まし込んでいられるじゃないか。
なぜならば、幕府が堤防を拵(こしら)える方法と、今御上で堤防を築き上げる方法とは、まるで違うよ。まるで違うから、いくら大洪水でも、屁でもないのに、僅か少しの放尿位に手も足も出ないのであるのだよ。
幕府が河川の堤防を拵(こしら)えるには、その堤防の基脚に注意したものだ。それだから地下を深く五丈も六丈も掘りて、それから力を籠めて、固めてくるのだ。そうして段々堅く積み立てて来て、いよいよ外に現れて見える様なところまで来ると、よろしいか、もー、ただ泥土位で積んで、そうしてその上に柳を植えたのだ。それだから寔(まこと)に見掛(みかけ)は悪いけれども、丈夫の事はどんな大洪水でも、安心していられたものだ。よろしいか。
拵(こしら)え方ばかりでない、未だこのほかに沢山の用意があるんだ。
先ず利根川についてちょっと言って見れば、水際に堤防があるだろう。その堤防の内に田畑を拵(こしら)えて、その次にまたまた大きな最も手堅い堤防を拵(こしら)えたものだ。
堤防と堤防の間にある田畑は、何のためかと云えば、これには仔細がある。見なさい、万一にも第一の堤防の内、何処かが決壊した時には、この挟まれた田畑が水勢を分岐して、第二の流水となるから、更に第二の大堤防はどんな洪水でも、平気でいられる訳にしたものだよ。
… … …
それだから、幕府は二個の堤防間に挟まれたる田地は、土地の百姓に唯取にて作らせてあったものだ。この百姓等はもし洪水などで大地の堤防が切れた時には、せっかく丹精して造り立てたる五穀は、水のためにめちゃめちゃにしてやられるから、出水の時などは、各村が一生懸命になって、昼も夜も寝ずにこれを防いだものだ。
その上で何処か一方口の破れた時には、他の方面を受け持っている者等が、総掛かりになって喰い留めたものだよ。もしこれを喰い留められない時は、破れたるところより下層にある田畑は、一面に水に浸されるから、さあー大変になる。それだから、みんながそこへやって来て、一生懸命になって喰いとめたものだ。それをどうだい、御維新後になってからは、この挟まれた田地へも細かく縄を入れ、反別(たんべつ)を量(はか)って一々税金を取る様になった。税金ばかりではないのだよ。堤防を丈夫にするために植えてあった、その柳の樹までもみんな切り倒してしまった。実に困り者じゃないか。
また治水の法は未だそればかりではない。外にいくらも用意がある。例えば河川上流の両岸には、いろいろな草や木を八重葎(やえむぐら)の様に、ごちゃごちゃに植え込みて、水勢を一段弱める工夫もしたものだ。
これは利根川ばかりではない。日本国中どこの川の堤防でも、皆こういう風に力を籠めて用意してあったものだから、どんな洪水にも枕を高くして、沿岸の人民は寝ていられたのだ。今では沢山の入費をやってさえも、こんなざまだ。少しの水で繰り返される様では、困りきってしまうじゃないか。
御維新前はただの素人でさえも、こんな丈夫な堤防を拵(こしら)えたのに、どうだい、今日ではやれ何博士で候の、やれ何技師で候の、と云う者でなければ、出来ないもの、と思っているじゃないか。
そのくせ、こんな人等が沢山の入費をやって拵(こしら)えた堤防も、何少しばかりの出水に堤脚を洗われて、ぶくぶくとじきに壊れてしまうではないか。
おのれは悪口を云う訳ではないが、こんな博士とか技師とか云う先生をば、みんな書物を読んだばかりで、肩書があるのみ。
書物と仕事とは丸で違うものだよ。五年か八年も書物を読めば、誰れでも博士や技師位にはなれるじゃないか。それだから困ると云うのだ、どうだ。
昔美濃、尾張の治水法は、織田信長が上手にやったよ。駿河の阿部川は、加藤清正が堤防を拵(こしら)えた。信長の方も、清正の方もいずれも地下を六七丈も深く掘りて、地盤から堅めて築き上げた。それだから、昔はどんな洪水でも、今の様のざまはしなかったのだよ。古人の用意はどうだい、恐れ入ったろう。
それだから、おのれが言わない事ではない。「樹木乱伐の事と、堤防築造の事は、御上でも余程注意しなければなりませんぞ」と、いつでも言っているのに、災害を眼の前で見なければ、平気の平左衛門でいるから困るのだ。
おのれの言うことは後になると、きっと事実となりて現れて来るが不思議じゃないか。不思議と云えば、不思議だが、実は先きが余りに見え過ぎるからだよ。
今年は六十一年目の雨年だよ。これから雨も降る、風も吹く。雷も鳴る、みんなに気をお付けと言ってお呉(く)れよ。
… … …
お前達に徳川時代の話をして聞かせると、直にけなして、何んだあんな旧弊時代と軽蔑するけれども、これは大問題だよ。
見なさい。どうだい旧幕の頃は、今の人達に企ての出来ない、丈夫な堤防を拵(こしら)えて、水利を計ったではないか。
今の奴等は一言いって、二言目には、直に学理応用とか何とか、ナマイキなことをヌカスが、何も仕事は出来ないじゃないか。尾濃の野に堅固な大堤防を拵えた織田信長でも、駿州阿部川の両岸へ丈夫な堤防を拵(こしら)えた加藤清正でも、工学士とか何々博士とか言う免状は取らないよ。どうだい。
ただ堤防ばかりじゃないよ、丸の内へ入る見附の石垣はどうだい。何と立派なものじゃないか。おのれは、見掛が良いから立派だ、と言うのではないよ。
つまり見掛の良し悪しには頓着はないのだ。実に幾百年たっても大丈夫だから、立派なものではないかと言うのだよ。あの見附の石垣を拵(こしら)えてから、こっちへ幾百年経ったと思うか。まあ、指を数えて見なさい。ずいぶんと古いじゃないか。どんな大雨にも大地震にも、あの石垣はたった一つでも狂って動いたことはないよ。今の人達の山師仕事とはまるで普請が違うのさ。
昔の人は今の人の様に人目に見える様な処は頓着しない。その代わりに誰にも見えない地底へ、いくら力を籠めたか知れないよ。昔と今と違うところはここだよ。
…(中略)…
こういう訳でみんなが大張合で精魂を籠めて拵(こしら)えたものだから、幾百年たってもどんな地震でも、ちっとも障りはない。唯の一つの石でさえ狂はないのも理りじゃないか。今の人達の天麩羅仕事とは、まるで違うよ。
何だ今の人達は見栄ばっかり繕って、いか物ばかりしか出来ないくせに、やれ学者で候の、やれ学理上どうのと、ナマイキな事をヌカスけれど、学者も学理も糸爪(いとづめ)もあったものじゃないよ。ほんとに呆れるよ、どうだい。
お前なんぞはおのれの前でこそ、おのれの話す事を、成程成程と、鹿爪(しかつめ)らしく聴いているけれども、家へ帰ると、じきに勝(海舟)の老爺めが、くだらない旧幕時代の話を聴かせたなどと言うだろうが、それはもっての外の不心得だよ。よろしいか、どうだい。
(明治29年9月16日付「国民新聞」掲載)
勝海舟(かつかいしゅう)は幕末・明治の政治家。
1823年(文政6年)江戸本所(現墨田区)生まれ。通称は麟太郎(りんたろう)。本名は義邦(よしくに)。幕末は安房守、維新後は安芳。号の海舟は佐久間象山書「海舟書屋」からとったもの。
直心影流島田派の剣客・島田虎之助(1814~1852)に剣を学び、21歳で免許皆伝。1850(嘉永3)年、赤坂で蘭学塾を開設すると蘭学を教えながら佐久間象山の元で砲術を学んだ。1853(嘉永6)年にペリー提督の黒船が来航すると、幕府老中首座・阿部正弘に海軍創設の必要性を説き、長崎に海軍伝習所を開設させた。江戸の軍艦教授所教授方頭取となり、1860(安政7)年には咸臨丸の艦長としてアメリカ・サンフランシスコに渡り、日本人による初の太平洋横断に成功。軍艦奉行となると海軍拡張を進め、神戸に弟子の坂本竜馬を塾頭とする海軍操練所を設立。塾生に陸奥宗光や伊東祐亨らがいた。
王政復古の際には、徳川慶喜に大政奉還をすすめ、幕府軍代表として西郷隆盛と会見し江戸無血開城を果たした。維新後も旧幕臣の代表格として外務大丞、兵部大丞、参議兼海軍卿、元老院議官、枢密顧問官を歴任。
晩年は本所入江町から赤坂氷川(港区赤坂)に居を移し、1899(明治32)年、脳溢血で死去。享年76。
勝海舟
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