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益田孝が関東大震災の時に遺した格言(旧三井物産の創設者)[今週の防災格言388]

time 2015/05/25

益田孝が関東大震災の時に遺した格言(旧三井物産の創設者)[今週の防災格言388]


『 今度の地震はずい分えらかったが、しかし精神的の打撃という点からいうと、私はもっと難儀な目にあっている。 地震のように突然パッとくるものよりは、だんだん形勢がせまってきて、これはいよいよ死ななければならぬわいと決心しなければならぬような事件の方が無論えらい 』

益田 孝(1848〜1938 / 実業家・茶人 旧三井物産の創設者 男爵)

格言は、日本経済新聞(1999年3月8日朝刊)「20世紀日本の経済人」より。
「えらい」は大変の意。

19歳のとき、戊辰戦争で幕府軍の騎兵隊長(騎兵頭並)になった徳之進(益田孝)は、迫り来る官軍の実力を知り「これはとても駄目だ」と覚悟したという。晩年、1923(大正12)年の関東大震災を小田原の邸宅で体験したときの言葉から。

益田孝(ますだ たかし)は、明治維新後に総合商社「三井物産」を創業、その後の三井財閥の繁栄のもとを築いた実業家。また「日経新聞」の前身「中外物価新報」を創刊。大茶人「鈍翁(どんのう)」として知られる人物。

佐渡金山を管轄する佐渡奉行所の勘定方役人であった益田鷹之助の長男として佐渡(新潟県佐渡市)に生まれる。父の赴任先の箱館(函館)や江戸のハリス(初代駐日総領事)に師事し英語を学び、14歳で幕府の外国方通弁御用として出仕した。1863(文久3)年、幕府がフランスへ派遣した池田遣欧使節団の一員として父とともに渡欧し、帰国後、横浜税関勤務を経て、21歳のとき新設された騎兵隊の隊長に任官するも、まもなく江戸城が無血開城された。明治新政府の井上馨(大蔵大輔)に見いだされ、1872(明治5)年大蔵省官吏となるが、台湾遠征問題をめぐって薩長間に対立が起こり江藤新平(司法卿)に反発した井上が下野すると、それと行動を共にし、貿易商社「先収会社」を創立し副社長となる。その頃、明治新政府・大隈重信(大蔵卿)は三井家に政府の諸御用の任命を行い、三井家の大番頭の三野村利左衛門(第一国立銀行、三井銀行創設者)から相談を受けた井上の推薦で、1876(明治9)年、三井物産の創立と同時に社長に就任。石炭の国際販売などを成功させ、その経営手腕により三井財閥の基礎を築いた。しかし、1891(明治24)年、三井物産が三井家直系会社となると社長から降格されてしまう。1901(明治34)年、中上川彦次郎(福沢諭吉の甥で、三井家の最高議決機関・三井家同族会を設置させ、三井銀行の立て直しや三井財閥の工業化を推進)が亡くなると、益田は経営に返り咲くことになる。1902(明治35)年、三井家副顧問として経営の中心に座り、その後の商業化路線により三井財閥を育成した。1907(明治40)年には、英国ロスチャイルド家など欧米各国の旧家の財産管理を調査。三井銀行・三井物産・三井鉱山など無限責任の合名会社では資産を守れないことから、1909(明治42)年、日本初のホールディング・カンパニー「三井合名会社」を創立させた。顧問として三井財閥の大番頭役を果たし、1914(大正3)年、エンジニア出身の団琢磨を後継者にし第一線から身を引いた。引退後は鈍翁と称し、茶人、骨董品収集家として著名。1938(昭和13)年12月28日没。満90歳。

■「益田孝」に関連する防災格言内の主な記事
松永安左エ門(2012.08.13 防災格言)
福沢諭吉(2010.09.20 防災格言)
大隈重信(2010.09.27 防災格言)
勝海舟(2012.12.03 防災格言)
安田善次郎(安田財閥創設者)(2011.01.03 防災格言)

 

<防災格言編集主幹 平井 拝>

 

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