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関東大震災から100年 – 震災からの復興と東京の不燃化 -|栢木まどか准教授(東京理科大学)講演録

time 2023/11/20

関東大震災から100年 – 震災からの復興と東京の不燃化 -|栢木まどか准教授(東京理科大学)講演録
写真:栢木まどか准教授(右)と平井雅也(左・麹町アカデミア)


2023年8月23日開催の麹町アカデミア(セイショップ協賛)講座では、近代建築史を専門とし、関東大震災の復興建築について研究されている栢木まどか東京理科大学准教授をお招きし「関東大震災から100年:震災からの復興と東京の不燃化」をテーマにお話をいただきました。
関東大震災後の帝都東京の復興について、現代都市の構造につながるまでの歴史的な変遷を交え、土地区画整理事業、道路・橋梁整備、築地市場など市場、復興小学校と小公園の整備、隅田公園や錦糸公園などの大公園設置など、多数の写真やスライドを交えレクチャーを頂きました。
(講演日:2023年8月23日 19:00-20:30 / 主催:麹町アカデミア×SEISHOP / 場所:SEISHOP市ヶ谷ショールーム)


関東大震災から100年
– 震災からの復興と東京の不燃化 –

講演者:栢木まどか(東京理科大学工学部建築学科准教授)

目 次


 

この百年間に何があったのか?

まず初めに、本日の講演会場であるセイショップの住所(東京都千代田区四番町)は、昔の地名では「上六番町」と呼ばれる土地となります。番町という今の千代田区エリアで、脇に公園(東郷元帥記念公園)と小学校(千代田区立九段小学校)がありますが、これは関東大震災の復興期の計画によって建てられたものです。詳しくは後ほどお話します。

関東大震災が起きた大正12年(1923年)9月1日から、大正、昭和、平成、令和と過ぎまして、今年、2023年で関東大震災100年がたちました。日本にも世界にも、この100年間に多くの地震があり、それぞれの時代の災害、それぞれの時代の復興がありました。今日は関東大震災の話ということで、そこを拡大しました。

この百年間に何があったのか?
関東大震災後の東京の復興―帝都復興事業の背景と評価

明治時代、愛知や岐阜で大きな被害のあった濃尾地震を機に、地震国日本として震災の調査が行なわれ、予防を考えるような学術研究につながる組織が立ち上がりました。

大正に入り、1917年(大正6年)、後藤新平(1857-1929)を初めとする政治家たちが中心になって、都市問題を解決するための研究会、さらに、内務省の中に都市計画を専門とする組織が設置され、1919年(大正8年)になると今の建築基準法の前身となる市街地建築物法や都市計画法が定められました。関東大震災の10年前(大正期)に都市に関しての問題意識が生まれ、解決のための政策や組織が動きだします。
関東大震災の頃は、このようなタイミングの時期で、実は、東京復興の立役者であった後藤新平は震災以前には東京市長をしていました。震災時には既に市長職を退いていたのですが、東京市長時代に東京を大改造するような8億円をかけた改造計画を立案し、東京市政調査会というシンクタンクをつくっていました。

まとめると、関東大震災の後の東京、現代の日本につながる当時の復興の成果をなした、都市のインフラ整備技術とか技術者集団とか職能、そのような組織が震災前に確立し始めていたという事です。

その結果、東京においては、帝都復興事業によって現在につながるような都市構造が創出されました。また、私の専門の話になるのですが、建築の耐震や都市の不燃化に意識が向けられるようになったと思っています。

本日は都市のインフラ技術などの話は割愛し、都市構造、帝都復興事業によって東京のどんなことがつくり出されていったのかという話と建築の不燃化を中心にお話しいたします。

――平井:よろしくお願いいたします。

 

関東大震災(1923年)

毎年9月1日が「防災の日」と定められているのは関東大震災が起きた日だからです。地震の規模はマグニチュード7.9で、東日本震災と比べると小さいけれど、阪神・淡路よりは大きい規模です。死者・行方不明者数が10万人を超えたといわれ、多くが火災によって亡くなっているのがこの災害の特徴です。

震災被害の記録はいろいろあり、(震災のスライドを見ながら)これは築地交差点付近かな、『帝都復興事業大観』に掲載されているのですが、よく見ると煙は後から手描きで描き込まれていて、惨状を伝えるための震災絵はがきです。

関東大震災の死者の多くは火災が原因ですが、阪神・淡路の大震災(1995年)では、大きくは家屋の倒壊による死者となっています。

東日本震災については、津波による被害が大きかったということで、一口に、地震災害による被害といっても様々で有り、復興のやり方や予防の仕方も様々に考えられてきたのがこの100年だと思います。最近では、トルコ地震などの世界規模で大きいものが起きています。

――平井:トルコの地震は、それでもマグニチュード7.8なんですね。

そうですね。そう思うと東日本震災が大きかったことも実感されるところです。さて、関東大震災に話を戻しますと、大きな被害が火災であったということで、図は、火災の延焼被害があったところに色を付けて、着彩して記されていた当時の記録になります。

――平井:星印は何ですか。

火災による焼失地域と死者(画像:『帝都復興事業概観』)
火災による焼失地域と死者(図『帝都復興事業概観』)

黄色の星印()は今いる辺り(麹町:セイショップ)です。

関東大震災の被災地は、東側半分が下町と呼ばれる地域、日本橋、銀座、日比谷辺りで、火は浅草のほうに広がって隅田川を超えて本所、深川の周辺で大きな被害をもたらしました。いわゆる東京の山の手のほう、西側はそこまで大きな被害を受けていないのです。

――平井:なるほど、ありがとうございます。

今日の会場近辺、昔の麹町区のエリアは、結構、火事の被害を受けていて、東側のほうは、後に区画整理されるのですが、その飛び地みたいで、震災後に整理されている場所なのです。

――平井:麹町は安全なエリアだと思っていましたので、意外ですね。

左側の表は、別の研究者の方の研究からの抜粋ですが、大部分が火災により亡くなっていることを示しています。全体の死者10万5千人のうち、当時の東京15区で7万人ぐらいの死者ですから、大部分が火災による死者です。東京の東側がこの時に火災で燃えてしまったというのが関東大震災の被害です。

そこからの復興ですが、現代の大規模災害では、応急仮設住宅(プレハブ住宅)が国の手配によりあっという間に建てられるというイメージがあると思います。けれども、関東大震災当時はそのようなシステムはありませんので、内務省震災救護事務局というのが組織され、東京府、東京市、当時の、警視庁や多数の自治体、それから大きな会社や実業団体が、それぞれ篤志(とくし)でバラックを建設して被災者を収容するようなことが行われました。

これはここ(セイショップ)から近い靖国神社の境内の中に仮設のバラックが建てられて被災者を収容していたという絵葉書になります。

靖国神社境内に並んだバラック
靖国神社境内に並んだバラック

ありとあらゆる空き地、広場、そういったところに人々が材料を持ち寄って仮設の小屋を造ってそこで過ごしていました。(半蔵門前、日比谷公園、宮城前(皇居)などのバラックの写真スライドを見ながら)

――平井:それぞれの場所で部材がちょっと違う感じがしますね。

そうですね。おそらく、支給されているものとそれを改造したもの、持ちよったものみたいな感じなのかなと思います。

ちなみに、建築家(今和次郎)が、当時のバラックを記録しています。震災後まずは自力で皆さん住むところを探していたという状況が言えます。現在は許されませんが、ご自分の家が流されたり焼けて壊れてしまった方が、勝手にそこに家を再建しているわけです。このような行為は災害後の復興事業にとっては邪魔となりますが、当時は、これを禁止する法律はないので、それぞれの方法で自力再建したことが分かっています。

――平井:私の経験では、バラックではありませんが阪神の地震の際にも、河原にテントを設置して生活されている方が多数おられました。テントが駄目だってことではないですよね。

今は、建築基準法でまずは2ヶ月までの建築制限があります。

このバラックというのは、仮設と申しますが、本当に小屋みたいな感じで、自力再建したり建て直したり修理したりという行為が行われ、それにより帝都復興事業における区画整理は難事業となりました。

 

帝都復興事業

このスライドは、東京府、東京市が施行した関東大震災後の復興のための公的事業を挙げた表と図になります。さきほどの燃えた地域(オレンジ色に塗られていた地域)がほとんどその対象地域になり、皇居の西側の飛び地が、今、こちらのセイショップがあるエリアです。

帝都復興事業(出典:東京市『帝都復興事業図表』)
帝都復興事業(出典:東京市『帝都復興事業図表』)

――平井:黒い星★のある場所、麹町ですね。

ここは燃えたので、区画整理を行う対象地になりました。

黄色い実線で描かれている線が特に区画整理の時に敷かれた新しい街路で、それまであった街路、赤で縁取りされている白抜きはもともとあった街路なのですが、それに格子状に重なるような形で、真っ黄色の線、例えば今の靖国通りですとか昭和通りですとか晴海通りですとかが道路計画として整備されています。この番号が振られているエリアで土地区画整理事業というのが行われ、各地区を選んで道路を整備し、整備地域に立つ建物は壊し、曳屋といって動かして街区整理を行いました。

また、橋などもこの時に架けられていますね。例えば、隅田川の鉄橋、鉄骨の橋が、この時に整備されています。

――平井:復興橋梁ですね。

はい。震災で木造の橋は焼け落ちてしまい、川に飛び込んで多くの方が亡くなりました。燃えない鉄骨の橋が帝都復興事業として整備され、隅田川に架かる橋だけではなく、エリアにある全ての川に架かる橋が再建されています。

さらには、河川・運河の整理、埋め立てもこの時に行われており、例えば本所や深川エリアでは、水路を埋めて道路にされた所もありました。

また、市場ができていますね。卸売市場では、豊洲に移転しましたが、築地市場はこの時にできました。ある年齢層より上の方はご存じですが、秋葉原の神田市場ですとかがこの時建てられています。

それから小学校、東京においては117校が、鉄筋コンクリートの建物で造られていたり、公園が新たに整備されたり、建物でなくインフラですが、上下水道やごみ処理場、市立病院、社会事業施設、電気事業施設などが整備されています。対象エリアは本当に限られているのですが、一方で小学校は被災地に限らず東京市の小学校117校が鉄筋コンクリートで建て直されています。

土地区画整理事業のお話しをしますと、後藤新平は、被災地より外側まで、何なら東京市全体を区画整理したいので30億円の予算をかけると言っていたのですが、それは国家予算レベルだよとなって、どんどん計画はしぼんでいったのです。規模は縮小されて、ぎりぎり、燃えてしまったエリアの区画整理(最終的な帝都復興予算は6億5千万円ほど)を行うことが決められました。

――平井:当時の国家予算は15億くらいですから、それでも半分ですね。

帝都復興の基礎 区画整理早わかり(出典:復興局『帝都復興の基礎区画整理早わかり』)
帝都復興の基礎 区画整理早わかり(出典:復興局『帝都復興の基礎区画整理早わかり』)

この絵は「区画整理、何するの?」ということを市民に啓蒙(けいもう)するパンフレットの一部で、単純には今まで不整形だった畑地から都市部のエリアをきれいな整形街区に直すことを示しています。

子どもに「これ、何? 田んぼ? 僕たちの街はこんな田んぼみたいじゃ嫌だ」と言わせて、「お前、どっちがいい?」とお父さんに聞かせる、こういうパンフレットを配布して「これは意味があることなんですよ。町の復興にはこれが必要なんですよ」と啓蒙しています。

――平井:当時は反対が多かったということなんでしょうか。

それこそ家を建ててしまっていたり、商売をやっていたりと、大変な状況でした。例えば、商売をやっていた人に対しては休業補償を全部出しているんです。保証金額、休業期間、移築費用をできるだけ調整して、各自が何の商売をしているかも全て書き上げて商売に応じた休業補償を支払って、破壊、移築をすすめて新しい街区に収めるということを全てのエリアで行っています。

――平井:すごいですね。

土地区画整理事業 第1地区 区画整理前→区画整理後
土地区画整理事業 第1地区 区画整理前→区画整理後

今のデジタルと違う、大変なアナログの世界でこの作業を全て実行したというのですから、おそろしいことだなとしみじみ思います。

ここセイショップが、この黒い★ですね。①、第1地区だったということが今回調べてみて分かりました。それほど区画整理されていないようですが、左側が区画整理前で、右側が区画整理後の図です。着目いただくのは黒く塗られている線です。ここが新しく敷かれた街路なんですね。靖国通り(図の上端道路)沿いのここのエリアっていうのが、こっち側……。

――平井:ちょうど★の近くの通りですか。

そうです。この通りはなかったのです。なかったのですが、中を通り抜けられるような、靖国通りにつながるような通りが整理されています。それから、もともとあった通りを拡幅したり、つながってなかった通りをつなげたりしています。この地域は大きな区画整理ではないので、それほど大変ではなかったのではないかと思います。

この地区と比較するために、墨田区の端っこの今のアサヒビールがあるところ、墨田川が流れていて、吾妻橋があって、墨田区役所のある地域なのですが、黒い線が全て新しい街路です。真っ黒の格子になっていますね。

土地区画整理事業 第44地区 区画整理前→区画整理後
土地区画整理事業 第44地区 区画整理前→区画整理後

――平井:これ、区画整理前とはかなり違うところに道が作られていますね。

そうなんです。これは、ぼやけて分かりづらいですけれども、江戸時代の絵図と震災前街区というのは結構似ていています。ですから、隅田川エリアには江戸時代(近世)から残る昔ながらの街区割というのが震災前はありました。これを完全にグリッドに縦横の格子状の道路に整理し直しています。東京では、下町のほうが一新されて近代的な整形街区に整理された、という場所もあります。区画整理では、何もなかったところにもこのような大きな通りが通るようなことが起こりました。

土地区画整理事業のイメージでは、例えば、建物を移動して真っすぐ通れる道をつくる。この写真では、この点線に通りがあるのですが、この建物の出っ張った部分、ここを真っすぐに削ったのではないかと思います。

土地区画整理事業 第44地区 区画整理前→区画整理後
本郷付近、芝区南佐久間町の道路拡幅(出典:『帝都復興事業大観』)

――平井:上がビフォーで、下がアフターですね。

そうです、このように道路の拡幅ですとか建物の移動をしています。

また、墨田区の辺りの話をいたしますと、向島や京島は区画整理事業エリアに入ってないので、今でも入り組んだ細い街路が残っている木密地区といわれています。帝都復興事業で区画整理されてないところが残されたという事です。

――平井:江戸時代からの街区が残っているような感じになってしまっているのですね。

そうです。それが一概に悪いとは言えないのですが、災害に弱いと言われればその通りなので、区画整理が適切な時期に行われるというのが強みにもなったし、江戸が残っているという差ができてしまったエリアと言えます。

それから、この辺で大きい通りが通ったのは、昭和通(しょうわどおり)ですね。

――平井:当時は高い建物がなく、きれいですね。

帝都復興事業 道路 昭和通
帝都復興事業 道路 昭和通り

そうですね、写真は復興途中の感じですけれども、そのほかに、晴海通り、靖国通り、今も東京の主要幹線道路になっている大通りはこの時に幾つか整備されています。

 

復興公園・復興小学校

もともと東京には公園があるのですが、新たに3つの公園が整備されました。一つが隅田川沿いの「隅田公園」、それから錦糸町の駅の向こう側に今もある「錦糸公園」と日本橋浜町の「浜町公園」です。

また、小公園、セイショップの隣にある上六公園がそれなのですが、小学校とセットになる小公園が52個設置されました。

隅田公園(出典:『帝都復興事業大観』)
隅田公園(出典:『帝都復興事業大観』)

このスライドは、隅田公園ですね。隅田川沿いのプロムナードの、浅草や向かい側の墨田川エリアを含む公園なのですが、川沿いの遊歩道が整備された美しい都市公園のイメージです。いまでも、残ってはいるのですが、公園として雰囲気ないのは、この上に現在は高速道路が通っているからです。東京オリンピックの前後には、日本橋の上を高速道路が通りました。

隅田公園でも、(敷地買収が要らないので)高速道路が通っているのは、いうなれば帝都復興事業で公園を造っていたから敷地に使えたということもあるかもしれません。

――平井:公園と言えば、地震対策としての、災害対策としての意味としては避難所になるということもあったのでしょうか。

そこまで考えていたかは不明です。おそらく、緑地、緑化のほうが強いかなと思います。東京を復興して新しくする時に都市公園をもしっかりと整備しなければとの意識のほうが強そうです。防災の意味が強くなるのは、むしろ小公園のほうかと思います。

これはイメージ図なのですが、小学校をまず鉄筋コンクリート造で再建し、セットになるような小公園を一緒に整備することを帝都復興事業の中で計画しています。

真横にあるパターン(図参照)と道を挟んでいたり、斜め側など、小学校とのセットの仕方はそれぞれ違いますが、小学校に隣接する場所に、生徒の運動場として一緒に使え、災害時に避難場所として使用される。現在の避難所としての公園のあり方、そのような考え方、意識が芽生え、設計されているものです。

復興小学校と小公園(出典:『東京市帝都復興事業概要』)
復興小学校と小公園(出典:『東京市帝都復興事業概要』)

また、小学校というものが鉄筋コンクリート造で新しい耐火構造で、理科室や水道、水洗便所、電灯その他の新しい諸設備を完備したものが、これを契機に(被災地域以外にも)建てられており、震災復興と直接関係はないのですが、後藤新平や当時の建築家たちが意図して進めたということが分かっています。

これは復興小学校研究会という研究会が作成した復興小学校の図でして、復興小学校とそれ以外となっています。

狭義の復興小学校は被災地に建てられた小学校をいいますが、同時期に建設された東京市立の耐火建築の鉄筋コンクリートの小学校を改築小学校と言い、全体を復興小学校というふうにざっくり説明してしまうことが多いです。

117校、建設されていて、どんどん建てられたのが昭和2年から昭和5年、昭和12年、13年ぐらいまでもあるかな。ほとんどが壊されてしまっていて、セイショップの横の「九段小学校」は一部保存ですね。

最近、上野にあった「下谷小学校」の取り壊しが決まりまして、7月にお別れ会をしたら大勢の方が訪れたようです。戦前期の鉄筋コンクリートの小学校建築が貴重なものにますますなってきています。

復興小学校の有名どころをご紹介しますと、「泰明小学校」が銀座に残っていまして、今ではブランド小学校でもありますけれども……。

――平井:制服が有名ですね。

昭和4年の復興小学校でして、現在も現役でちゃんと使い続けられている小学校です。

――平井:これは、懐かしい感じがしますね。(泰明小学校の内部のスライドを見ながら)

そうなんです。片廊下といいますが、北側に廊下があり日当たりのいいほうに教室が向いて校庭に向かって教室があるような構造や、理科室、手洗い場はこの時に原型が整備されて、この後長らく小学校建築の典型的なプロトタイプになっています。

――平井:復興小学校がモデルになって全国の小学校はこの形になったとか?

という面もありますが、この時期に、京都や神戸や名古屋で鉄筋コンクリートの小学校が造られ始めています。東京より早いところもあるのです。

――平井:そうなんですか。

東京では、この時、一度に117校も建てられているので、東京が一番大きな事例を抱えることになり、その後に東北のほうの小学校等は、これを真似したのではないか、この時期の東京の小学校の影響を受けたのではないかと言われているものがあります。100年前というのがそのような変革の時期に重なっていたとも言えると思います。

こちらは、この近所にある上六小学校、後の九段小学校です。

例えば泰明小学校はちょっと水平線を強調したりアーチの窓が上にあるような、四角張ったり角張ったりしたデザインなのに対して、九段小学校は、これもアーチなのですけれども、上までアーチが連続するような、階段室がさらに流線形のデザインで造られていたり、気合入ったデザインがされていて、おしゃれです。東京市の小学校建築の人たちが様々な工夫をして、基本的には3階建てで、L字型かコの字型、このような平面図でとか、ベーシックな部分は共通の仕様ですが、個々の小学校のデザインは結構工夫されています。

――平井:個々の小学校をデザインされる方はそれぞれ別の方だったのですか。

何人か担当者が分かれていて幾つかのタイプがあります。

九段小学校は公文書館等に図面が結構残されています。

上六小学校(のち九段小学校)1926年
上六小学校(のち九段小学校)1926年
上六小学校(のち九段小学校)改築前
上六小学校(のち九段小学校)1926年

――平井:この場所にセイショップが引越してきた2015年当時はこの建物でした。

この建物は、2018年、コロナ前ですね。改築されています。このように、外側の一部を、おそらく、残しているのではないかと思います。

――平井:こうしてきれいに残すんですね。

泰明小学校も九段小学校もこれを残してくださっている、というのは建物の価値を分かっていただいているのかなと思います。写真は改築前に見学に行った際の写真です。

――平井:これ、中は最新式になっているのですよね。

おそらく設備は新しくなっており、また、耐震補強がされていると伺っています。それから、上六公園、これは古い写真ですが、航空写真で、小学校の横に上六公園と東郷元帥記念公園という名前の二つの公園があります。東郷家の邸宅があった場所が寄付されて現在は一体化した公園として整備されました。残念ながら、ちょうど整備工事中で何にも見えない状態ですけれども。

――平井:セイショップにお見えいただいても、残念ながら見れません。

今お話をさせて頂いているショップのちょうど向かい側に、この公園があります。上六公園は、プールかな、池とかあずまやとか。滑り台があったりとか。

――平井:はしごだ。

当時、頑張った公園設計がされていたってことの写真を探し出してきました。

 

社会事業施設

復興事業の地味なところでは、社会事業施設もこの時造られています。社会事業施設とは職業紹介所や託児所、婦人授産場、職業訓練所ですね。それから、公衆食堂、簡易宿泊所、質屋、公設浴場も復興事業の一環として東京市が建てております。大部分が鉄筋コンクリートで造られ、このような建物がいわゆる復興建築の一種として街なかに増えていきました。これは蛇足ですが、帝都復興事業というよりも東京市の事業になりますが、街頭便所なども整備改修がされており、210カ所改築という記録が残っています。現役は一個も残っておらず、痕跡が秋葉原の万世橋のたもとに残っていました。現在公衆便所がある、その地下の川に面したところに実はトイレがあったというのが図面で分かっています。

街頭便所「被災した210箇所を改築」現存1箇所か
街頭便所「被災した210箇所を改築」現存1箇所か?
万世橋詰街頭便所(図面は東京都公文書館所蔵)

――平井:ひっそりと。

外観だけが残っています。川の両方のたもとにあって、この向かい側にもあるのですけれども、公衆トイレもこの時に市内に整備されました。

――平井:これ、言われないとトイレって分かりませんね。

船着き場みたいですよね。

――平井:先生が、見つけられたのですか。

いいえ。マニアの間では有名なところで、この図面を見に公文書館に行って探してきました。

 

住宅事業は復興事業に含まれなかった

関東大震災で公的な復興事業が行われましたが、実はこの中に住宅が入ってないのです。住宅をどうするべきかの議論はあったのですが、帝都復興事業としてはやらないという事になりました。ただ、やらない代わりに「同潤会(どうじゅんかい)」という財団法人を震災の義援金を元に開設し、この同潤会が内務省の外郭団体という位置付けで、半公的に住宅事業を行いました。

同潤会の前に、震災復興の時の「東京都市計画域内における震災直後に対する最近人口増加割合」という資料ですが、中心部じゃなく外周の辺り、郊外といわれる辺りに人が増えました。世田谷区の松沢というエリアでは46%も増えています。

財団法人 同潤会
財団法人 同潤会

震災をきっかけに中心部から郊外にまで人が拡散。郊外に住宅供給が必要になっていったという時代背景があります。

もう一つ、東京の戦前期の住宅街といわれる郊外住宅地が開発されました。有名どころだと田園調布や成城学園、桜新町、この辺は実は震災前の開発なのですが、東京の中心部、今の山手線以西にたくさんの私鉄が走るようになり、住宅が増えていきました。

そこに重なるように同潤会も住宅供給を行っていきます。有名なのは鉄筋コンクリートのアパートですけれども、アパートより実は戸数を多く造ったのは、木造長屋の普通住宅事業です。また、最初期には、今でいう応急仮設住宅に当たるような仮の住宅を、公的な組織として手がけています。

同潤会は戦中期まで存在し、この後、不良住宅地改良や分譲住宅と事業を拡大していきます、特に震災復興期の最初の仕事としてはアパートだけではなく木造住宅の建設をしているということを紹介しておきます。

――平井:不燃の住宅ではないのですね。

そうなんです。例えば、荏原住宅という、もう再開発でなくなってしまったのですけれども、荏原中延駅の近くにあった住宅街は同心円状の住宅地計画を同潤会がやっていて、木造の四戸一といいますが、1棟の中に4世帯が住めるような長屋建ての住宅をたくさん並べることを行いました。

それから、同潤会で何か残っているものはないかと探しまして、これは松江住宅といって、江戸川区になるのかな。バス停に同潤会という名称が残っています。

普通住宅事業 木造長屋建 松江住宅
普通住宅事業 木造長屋建 松江住宅

ここは同潤会通りと言いまして同潤会松江住宅のあったエリアです。長屋が1棟、おそらく当時のものではないかと、先日に行った時に見つけたのですが、こうした木造の住宅地計画と並行して、鉄筋コンクリート造の住宅を都心部に造っています。

横浜に2カ所、全体で15カ所に鉄筋コンクリートのアパートを造りましたが、15カ所の設計はそれぞれで行い、都市の勤労者向けに不燃化した建物を、どちらかというと低所得者向けに普通住宅を郊外に造るというような使い分けをしていました。

1階にお店が入るような、いわゆるゲタ履きの形で外側に向けて開いていたり、逆に内側は中庭に向けて囲み型の配置の集合住宅であったり、3階建て、4階建て、一番大きいものでは6階建ての建物もあったのですけれども、現在の集合住宅につながるような階段室型の鉄筋コンクリートで、お風呂なんかはほとんどなかったのですけれども、階段室や屋上に設けていた例もあります。

有名なのは表参道にあった「青山アパート」です。現在は表参道ヒルズに建て替わっているところですね。昭和2年に建設され、取り壊し直前と、現在のイメージです。同潤会アパートは、実は一つも残ってないのです。全て取り壊されてしまいました。現在雰囲気が分かる唯一の例は表参道のコチラです。

同潤会 青山アパート(1927年)
同潤会 青山アパート(2002年)
同潤会 青山アパート(2006年)
同潤会 青山アパート

中はお店として使われていて、外を完全レプリカで建て直していて、パーツは元のアパートから取り外したものを使ったりしているのですけれども、隣の表参道ヒルズの商業施設とつなぐために階高を変えていたり階段の上りを逆にしていたりと、当時のままではないのですが雰囲気を伝えるものとしては唯一のものなので、ご紹介をさせていただきます。鉄筋コンクリートのアパートの中に和室のしつらえを施し、板張りの部屋やコルクを敷いて、その上にござを敷いたり。

同潤会 青山アパート(出典:建築写真類聚『新興アパートメント』)
同潤会 青山アパート(出典:建築写真類聚『新興アパートメント』)

――平井:こちらは、家だけの提供だったのですか。家財道具も一緒に提供されたのでしょうか?

当時は賃貸住宅として貸し出されておりました。でも部屋だけでなく、例えば、米櫃(ひつ)や炭櫃、備え付けの設備、すのこ(簀子)なども、生活のためにあったようです。それから、水洗便所を全戸に備えていた辺りは当時の最新設備という感じですね。

――平井:水洗便所が備えられていたのですね。

はい、さらに屋上に洗濯場があって、蛇口からの水で洗える設備が各アパートにあり、だいたい屋上に洗濯物干しが造られていました。

青山アパートの特徴としてはパラペット(屋上の胸壁)が高いことです。神聖なる表参道に面しているので「ここに洗濯物が見えるのはまかりならぬ――」という、当時近くに住んでいた軍関係の方からのご意見があったという小話が残っています。

同潤会のアパートは、数としては15カ所で2,000戸~2,500戸。数は多くありませんがこの住戸が人気になったことで、当時、同じようなアパートや集合住宅が市内に建てられ、地方にも鉄筋コンクリートの集合住宅ができる先駆けとなりました。

 

復興と都市の不燃化

同潤会の鉄筋コンクリートのアパートなどの不燃の建物、耐火の建物を建てることで、防火地区といわれた地域全てを不燃建築化しましょうという理想が当時の市街地建築物法で定められております。

このような指定はそれまで法律としてはありませんでした。江戸時代から火事は大きな課題ではあったので、燃えないように通りを拡幅しようとか、広場を造ろうとか、火除け地を造ろうとか、瓦ぶきにしようとか考えられてきたわけです。けれども、近代都市国家の法制度として防火のための場所を指定し、不燃化しなさいというのは市街地建築物という大正期の法律でした。この範囲は施行規則で決まるのですが、これが公布されたのは大正11年なのです。大正12年に震災が起こるので、全く効力を発揮せず、決めただけでほとんど終わっていたので、震災後の大正14年にもう一度指定し直しています。
指定し直した防火地区の範囲は、特に燃えたエリアや日本橋や銀座等の中枢エリアです。また、横浜でも、震災復興の計画をするのと同時に法律を改めて整理し、とにかく燃えない建物を造るべき、とされました。

――平井:いろんなことを一気にやった感じですね。

そうです。やろうとしているのですが、法律には強制力がありませんでした。
家も失って財産も失って、法律だから不燃化の建物を建てなさいと言われてもなかなか建てられませんので、撤去期限を設けて、しばらく仮設のままでいいですよ、昭和3年までいいですよ、昭和8年までいいですよ、昭和10年までいいですよ―――と、例外規定をずっと延ばしていきました。これが昭和13年ぐらいまで続いていて、その後、戦時下へと入り、鋼材規制で金属が使えなくなっていきます。
この時代に防火地区の理想が示されたけれども、法的強制力を持たずに終わってしまっています。

それでも大きな被害に遭ったので、不燃建築の数は増えます。
表を見ていただくと分かるのですが、15区内の建築構造種別棟数の変化で、木造を除いています。鉄筋コンクリート造(太線)の伸びを見てください。

――平井:ここ(赤い点線)が1923年(関東大震災)ですね。

建築構造の変化 不燃建築としての鉄筋コンクリート造
建築構造の変化 不燃建築としての鉄筋コンクリート造

はい。じわじわ伸びていたのが、震災を境に右肩上がりに増えています。逆に、江戸時代からの漆喰(しっくい)で分厚く塗り固めた土蔵造や当時普及し始めていたレンガ造などは震災でガクッと数を減らしてそのまま減っていきます。

したがって、震災をきっかけに不燃化が進みます。鉄筋コンクリートの建物が建てられるようになるというのは、ここだけを見れば事実と言えるのですが、木造以外の建築というのは、図で見ていただくと、木造の棟数と比べ限りなくゼロに近い割合、本当に1割にも満たない割合です。震災当時の(戦前の)東京では、震災をきっかけに建築構造を大きく切り替えようとした部分があるのですが、現実問題としては木造都市のままであったということになります。本日は不燃化という話をテーマにしているのですが、不燃化できなかったよね、というのが事実となります。

震災後の昭和10年(1935年)、鉄筋コンクリートの建物がどれくらい建っていたかというと、丸の内、東京駅、れんが造で、三菱も丸の内の辺り、霞が関や日比谷が中心ですね。まばらに不燃建築が建てられたのが日本橋。この辺は、百貨店や日銀ですけれども、当時は大規模な建物が散在している感じです。

関東大震災後の東京の都市不燃化の達成率
関東大震災後の東京の都市不燃化の達成率

麹町界隈を拡大してみると、四角かったり、コの字だったりの建物は学校建築です。小学校に限らず、中学校、小学校、高校は、この時に鉄筋コンクリートで建て替えられました。英国大使館、軍人会館(九段会館:1934年 川元良一)等々、東京逓信病院(1937年 山田守)は当時のモダニズムの感じで建てられたものでした。

ですが、不燃化が進んだといっても、面的に不燃構造の建物が並ぶ形にはなかなかならなかったのが戦前期の東京です。麹町、日本橋、京橋、神田という15区の中でも不燃構造の建物が最も多かったエリアでも、ちらほら、ぱらぱらであったというのが当時の現状です。

さきほど申し上げた撤去期限の延長や、そうはいってもお金がないような状態で不燃化されたのはどんな建物だったのかというと……。

例えば、今は有りませんが、複数人で共同して不燃の建物を建てるのはどうですか、と言う提案を当時の有識者や復興局がしています。神保町と九段下の間、俎橋(まないたばし)を渡ったところにあった「今川小路共同建築(九段下ビル)」という建物ですけれども、9組の施主が縦割りに土地を所有していて、追加で出資して共同建築という形で通り沿いに建物を建てました。鉄筋コンクリート3階建ての共同所有の建物を建てています。

個々に建てようと考えると、例えば敷地境界や階段室が場所を取るなどの問題があります。でも、共同建築にすれば、例えば共同の廊下と共同の階段室を造ることで、省エネ、省コストになり、立派な建物、構造上も強い建物が建てられるため、助成金、補助金も出しますよと復興局が音頭を取り、例えばこのような共同建築を建てなさい、という様なことを言いました。

もう一つ、不燃化ではないのですけれども、この時代に建てられ、増えた建物として、看板建築と呼ばれる、木造の大体2~3階建てのお店を持つような建築があります。
正面にひさしを出す昔ながらの(近世からの)町屋だと、平入りのひさしの下の出桁造りといわれるような、凹凸がある、平面、立面を持つ建築が普通であったのを、いわゆる看板のようにのっぺりとデザインすることで、被覆するという意識があったのだと思います。タイルや銅板で表面を覆ってしまうことでデザインとともに少し耐火性を高めようという意識ですね。このような建物が震災復興期の東京にとても増えました。増えそして今はほとんど失われています。今、神田に残っている「海老原商店」が看板建築です。

――平井:現在も、残っているんですね。

「海老原商店」さんは、活用されている現存する看板建築です。

神田、月島、築地、芝、新橋みたいな中心からちょっと外側辺りにこのような看板建築が増えました。全国に波及していて、東日本のほうが多いイメージですけれども、東京で流行した後に、地方の都市部で、看板状のファサード(建物正面の外観)で、和風というか、洋風というか、様々なデザインが施された建物が流行したのも震災復興からの流れかと思います。

それから、変わったところでは、神社やお寺も、この時期に鉄筋コンクリート化されたものがあります。10~20ほどでそれほど多くはありませんが、有名どころでは「神田神社(神田明神)」ですね。昭和9年に建てられていて、実は鉄筋コンクリートなんです。

――平井:とっても和風の建築に見えますよね。

そうですね。RCで、ほぼ木造そっくりに建てられていて、総漆で塗っているので、いかに木造に見せるかということに心血を注がれた鉄筋コンクリート造です。

屋根の中はトラス。鉄骨のトラスってイメージ湧きますでしょうか。実は大屋根が組まれていて、だから、木造ではないのです。
それから、「築地本願寺」も有名ですね。あれは、インド様式ですが、そういった建物までが鉄筋コンクリート造化されたというのがこの時代です。

そろそろ締めとなりますが、いったいどれくらい不燃化できたのかというのを、統計はないので、いろいろなところから割り出してみました。
防火地区を全部防火できたら、耐火建築で全て覆われたら100%だと考えて、延べ面積と建ったものの延べ坪の集計を勝手に重ねて15%ぐらいが当時達成されていたのではないか、そして、東京、日本は戦時下に突入する…というのが、震災復興期の不燃建築、都市不燃化の達成率という結論になります。

図の左下は、田邊平学(1898-1954)さんという学者の言葉で、著書『不燃都市』(1945)に書かれています。当時は昭和20年なので、防空について語っている中で、防空対策としては不燃建築で覆わなければいけないのですけれども、関東大震災の苦き経験を十分に嘗めた東京都においてすら燃料にも等しい木造建築がいまだに建物全棟の97%を占めているというのです。戦時下でこの状態であったということです。

関東大震災というのは東京の大きな骨格を変えたという話と、都市不燃化という大きな命題を与えつつ、達成率としてはそれほど大きくはないのですが、いろいろなものを変えていきました。この辺りが、本日お話し申上げた、内容となっております。

 


講演者:栢木まどか(かやのき・まどか)

栢木まどか(かやのき・まどか)

東京理科大学 工学部 建築学科 准教授・工学博士

1975年東京生まれ。広告代理店勤務後、博士課程進学。
東京理科大学助教、東京大学特任助教、文化財保存計画協会特任研究員を経て2014年より現職。
近代建築史を専門とし、同潤会アパートや共同建築など、関東大震災の復興建築をはじめ、戦前期の都市や、鉄筋コンクリート造黎明期の建築を対象とした研究、また同時期の台湾、韓国における都市・建築調査を行う。
著作として『復興建築 モダン東京をたどる建物と暮らし』(監修・トゥーヴァージンズ)、『危機の都市史』(共著・吉川弘文館)、渋谷区郷土博物館・文学館「同潤会アパートと澁谷」図録など。

・主な著書
「復興建築 モダン東京をたどる建物と暮らし (味なたてもの探訪)」(トゥーヴァージンズ 2020)
「危機の都市史」(吉川弘文館 2019)

・栢木研究室 Webサイト:http://kayalab.net/introduction/
・東京理科大学:本学で活躍する女性教員の紹介:https://www.tus.ac.jp/tcw/interview/iv_m_kayanoki-1/

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