防災意識を育てるWEBマガジン「思則有備(しそくゆうび)」

奥貫友山が寛保の大洪水の時に手記『大水記』に記した格言 (江戸時代の慈善家)[今週の防災格言125]

time 2010/04/05

奥貫友山が寛保の大洪水の時に手記『大水記』に記した格言 (江戸時代の慈善家)[今週の防災格言125]


『 飯を炊くには、タライへ土をぬり、其の上にてたき炊き候事 上策なり、水の浅深に従ひ浮沈して水の入る事なし。(水害時の教訓) 』

奥貫友山(1708〜1787 / 江戸中期の儒者・教育者 慈善家)

奥貫友山(おくぬき ゆうざん)は、江戸時代の武蔵国川越藩領久下戸村(埼玉県川越市)の名主で、私塾を開き、近隣の子弟に学問を授けた教育者である。
1742(寛保2)年の「寛保の大洪水」(台風により荒川・利根川が決壊し現在の埼玉県を襲った江戸時代最大の洪水)では、私財を投げうって、罹災者救済にあたった。この時、自らの田畑を江戸商人に質入し、その金で食糧を買い、一年に渡って救援し続け、48ヶ村の10万6千名の命を救った。
後の明和の凶作で一揆が発生したとき、盗賊が富豪の家を焼討する中、奥貫家だけには誰も手を出さなかった。悪徒たちは奥貫家の門前に並んで手を合せ伏し拝んで立ち去ったという。

格言は友山の手記「大水記」から。この手記は寛保の大洪水の被害状況や、自ら行なった救済活動、藩からの褒賞、その活動から得た教訓などを克明に記録したもの。

参考資料 ◎奥貫友山の水災救助について補足

修身訓話(明治44年)より

「 平生節倹をつとめ、時あるに臨みて家財をつくして公衆の救難に致す、陰徳(陰得)あるもの何ぞ陽報あらざらん。 」

武蔵国川越の近ほとり久下戸村といふに奥貫友山といふ人がある。通籍は五平次といひ、その名を正卿といつたが、成島錦里(錦江)といふ幕府の儒者に就て学問を修め、専ら實業を尚(とうと)んで虚文(内容の乏しい文章)を斥けて居った、彼の青木昆陽、中村蘭林などは最も親しい友達であったが、見る人いづれも皆他日きっと役に立つ人だといって居ました。
寛保二年に関東に大洪水があって、川越の近傍は最も水災が甚しかった、その時に友山が、その父に語るには、

「父上よ、平生倹約せよ、倹約せよと仰せありしは、今日の如き不時のことがあるためでありませう、願くは家財をなくしてもこれを救ひたいと思もひます、御許し下さるでありませうか」

思ひ込んだ友山の言葉に、その父も心うれしく、

「それこそ固(もと)よりわが望むところである」

といって、そこで倉をひらいてどしどしと施しましたから、飢民ともはわれ先きにと集つま来て、門前には市をするほどでありました。
友山は多くの粥をこしらへて、丁寧親切にこれをもてなし、その上に老人といはず。子供といはず、一人毎に米四升づつを與(あた)へましたが、来る人は多く貯へた米には限りがあるから、僅かの間に米がなくなると、又金を出して四方から米を買ひ集めさせて救助に充て、その金が盡(尽きる)くるときは田畑を江戸の大きい商人のところに質入して、その金でまた白米を買っては救ふといふ有様であったから、その年の十月から翌年の四月になるまでに、奥貫家の恵みのために生命をつなぐものが、四十八ヶ村十万六千余人におよんだといふことであります。
されば川越候は大いに友山を徳として、ことさらに召出し、時服や佩刀(はいとう)を賜はり、その上に厚き酒膳を設けてもてなされました。
最初この洪水のあるにおよんで、幕府においては、飢民が四方に離散するを心配して、一切他村へ出ることを禁じましたれば、かねて富豪の名なる人々が、施行せんとおもふものもあったけれど、幕府からこの禁制があったといふことを聞いては、その志を果さぬものもありました、そこで友山は江戸に出て、その師成島錦里(錦江)先生に面会して、幕府の禁止の命令が不利益であるといふことを申し立てたから、錦里(錦江)も有理のこととして、早速書面をもってその次第を幕府に言上したから、その日ただちにこの禁を解かれました、そこで富民どもがあちらこちらと財産を出して飢民を救へましたから、爲めに餓死を免るるものが多かったといふことである。
明和年中に武蔵上野の二国が凶作であって、食を得ぬものが多かったから、貧民どもが盗みをしたり、富豪をおびやかしたり、またはそれ等の人の家を焼き拂はんとして、すでに友山の家にまで及ばんとせしところへ、一人の悪徒仲間が走せ来つて大聲(大声)に呼ばるには、

「これこそは音にも名高い奥貫様の家である、先年わが祖父母、父母、兄弟どもが、水災のために一命の危きところを助けて下さったのは、全く奥貫殿の御恩である、かならずともに手をつけてはならぬぞ」

と、多くの人々を制しましたから、寄り集った多くの人々は大いに驚いて、皆一様に奥貫の門前にづらりと並んで、手を合せ伏し拝んで立ち去ったといふことである、友山の如きはまことによく施すことを知った人であります。


■「奥貫友山」「洪水・水害」に関連する防災格言内の主な記事
農書『百姓伝記』(1680~1682年・著者不明)巻七「防水集」の洪水への備え(2018.08.27 防災格言)
二宮尊徳翁(二宮金次郎)(江戸時代後期の経世家・農政家)(2012.01.30 防災格言)
上杉鷹山 (江戸時代中期の大名 出羽国米沢藩9代藩主)(2010.04.12 防災格言)
莅戸善政[1] (かてもの作者 出羽国米沢藩家老)(2008.03.17 防災格言)
莅戸善政[2] (かてもの作者 出羽国米沢藩家老)(2011.12.05 防災格言)
中江藤樹 (江戸時代初期の陽明学者 近江聖人)(2010.11.22 防災格言)
中央防災会議「大規模水害対策に関する専門調査会」(2008年9月8日)より(2018.07.09 防災格言)
利根川改修工事に見る水害の歴史(2010.2.26 店長コラム)
利根川の洪水想定 首都圏で死者4,500~6,300人(2010.3.5 店長コラム)
小田原評定(水俣土石流災害)(2006.1.29 店長コラム)
豪雨そして土砂災害。その犠牲者はいつも老人ホーム(2010.7.20 店長コラム)
諫早豪雨の教訓から(1957(昭和32)年7月25日)(2017.07.10 防災格言)
松野友(岐阜県本巣郡穂積町町長 日本初の女性村長)(2015.03.02 防災格言)
及川舜一(元岩手県一関市市町 カスリーン台風とアイオン台風の大水害)(2015.09.14 防災格言)
小川竹二(元新潟県豊栄市長 下越水害)(2017.09.11 防災格言)
川合茂(河川工学者 舞鶴工業高等専門学校名誉教授)(2011.08.15 防災格言)
高橋裕(河川工学者 東京大学名誉教授)(2017.06.12 防災格言)
幸田文(随筆家・小説家 代表作『崩れ』『流れる』)(2015.05.11 防災格言)
桑原幹根(愛知県知事)(2014.09.15 防災格言)
廣井悠 (都市工学者)(2012.03.12 防災格言)
大隈重信 (佐賀藩士・早稲田大学創立者)(2010.09.27 防災格言)
下田歌子 (歌人・実践女子学園創始者)(2009.12.14 防災格言)
平生釟三郎 (川崎重工業社長)(2009.11.02 防災格言)
山下重民 (明治のジャーナリスト 風俗画報編集長)(2008.09.22 防災格言)
吉田茂 (政治家)(2008.05.05 防災格言)
脇水鉄五郎(地質学者・日本地質学会会長)(2011.07.18 防災格言)
谷崎潤一郎 (作家)(2014.12.08 防災格言)
矢野顕子 (シンガーソングライター ハリケーン・サンディ水害)(2016.10.17 防災格言)
森田正光 (お天気キャスター)(2017.06.05 防災格言)

 

<防災格言編集主幹 平井 拝>

 

[このブログのキーワード]
防災格言,格言集,名言集,格言,名言,諺,哲学,思想,人生,癒し,豆知識,防災,災害,火事,震災,地震,危機管理
みんなの防災対策を教えてアンケート募集中 非常食・防災グッズ 防災のセレクトショップ SEI SHOP セイショップ

メルマガを読む

メルマガ登録バナー
メールアドレス(PC用のみ)
お名前
※メールアドレスと名前を入力し読者登録ボタンで購読

アーカイブ

人気記事