『 地球の命数から見ると十年などいう月日は、ほんの電火一閃に過ぎない。しかし、地球上に住んでいる人間にとっては、その十年間における環境の変化というものは、時としては地球そのものをも一変し終わったかの如き威を抱かしむる場合が少くない。 』
結城豊太郎(1877〜1951 / 銀行家 大蔵大臣・日本銀行総裁(第15代))
わずか10年間に、「第一次世界大戦後の金融恐慌(1920年)」、「関東大震災(1923年)」、「昭和2年の金融恐慌(1927年)」、「濱口雄幸内閣による金輸出解禁の声明(1929年)」という財界の大事件が次々に発生したことについて述べたもの。
曰く―――。
《 地球の命数から見ると十年などいう月日は、ほんの電火一閃に過ぎない。併し地球上に住んでいる人間に取っては、その十年間に於ける環境の変化というものは、時としては地球そのものをも一変し終わったかの如き威を抱かしむる場合が少くない。
殊に輓近(ばんきん)社会の事物が日を遂うて煩を加へ、累を増すに至っては、十年と謂はず、一年と謂はず、今日に據って明日を測ることの出来ない変化が、殆ど応接に遑もない程飛出して来るのである。
惟うに因果の錯綜、容易に其間の関係真相を明かにすることの出来ないものが多くあるに至った為であろうと思う。
併し是等の端倪すべからざる変化起伏と言っても、遡って静かに之を研究して見ると、必ずや其処に一定のコースがあり、カーレントが存するので、永き人類の経験は将来を察する為には、先ず現在を知らねばならず、現在を知ろうと思うには、過去を研究するの必要があることを明らかに教えて居るのであります。 》
格言は昭和5(1930)年10月、東京帝国大学で行われた講演「最近十年間に於ける我財界の動き」より。
結城豊太郎(ゆうき とよたろう)は、大正から昭和にかけて活躍した財界人で、安田財閥の番頭、日本興業銀行総裁、商工組合中央金庫(商工中金)初代理事長、日本商工会議所会頭、日本銀行総裁、大蔵大臣などを歴任した人物。「銀行ノ生命ハ信用ニ在リ」「信は万事の本と為す」をモットーとした。
特に、戦時中の国家統制色の濃い社会情勢のなかで、金融協議会の設立といった金融の自主性・中立性の確保に努め、旧日本銀行法制定では政治の圧力に抗して金融の中立性確保のために努力したことが広く知られる。
要職の中にあっても郷里赤湯(山形県南陽市赤湯)を愛し、英国の市民図書館を参考に、郷里の青少年育成のため私邸を開放し図書館「臨雲文庫」(現南陽市立結城豊太郎記念館)を創設している。
写真引用:日本銀行WEBより |
明治10(1877)年、山形県赤湯村(現南陽市)で酒造業を営む旧家結城弥右衛門の三男に生まれる。幼少から秀才で赤湯小学校の卒業時は山形県知事賞を受賞。14歳で旧制山形中学(現山形県立山形東高等学校)に入学し、成績優秀で無試験で仙台の旧制第二高等学校(現東北大学)へ進学。二高でも成績優秀で東京帝国大学法科大学政治学科に無試験の推薦で進学した。ただ、明治36(1903)年に大学を卒業した時の成績はよくなく15番だったという。大学の同期に小野義一(大蔵次官)、小川郷太郎(商工大臣)、上杉慎吉(法学博士)、馬場えい一(内務大臣)らがいた。
大学卒業と同時に日本銀行への入社を志し、恩師の法学者・金井延博士に日本銀行副総裁・高橋是清宛の紹介状をもらい、明治37(1904)年に日本銀行に無事入行。
本店検査局勤務を経て日銀ニューヨーク代理店監督役付、京都支店長、総裁秘書役、大阪支店長などスピード出世をした。大正8(1919)年、43歳にして井上準之助日銀総裁の推薦で日本銀行理事に就任。欧州大戦(第一次世界大戦)後の金融恐慌では、手形決済不能に陥った金融機関に特別融通を実施するなど策を講じ、恐慌が関西一帯に蔓延することを未然に防止する活躍をする。大正10(1921)年、安田財閥の安田善次郎の不慮の死をきかっけに、安田の顧問をしていた高橋是清(蔵相)と井上準之助(日銀総裁)の推薦を得て、安田財閥の統帥者(番頭)として招聘されたため日銀を退職。安田保善社専務、安田銀行副頭取を兼務し、財閥の発展とその指導にと当たった。昭和3(1928)年のヨーロッパ視察から帰国すると安田家との確執により解任され退社を余儀なくされる。その後、高橋と井上らの尽力もあり、昭和5(1930)年に日本興業銀行総裁(第6代)に就任、昭和11(1936)年に設立された商工組合中央金庫(商工中金)初代理事長、日本商工会議所会頭(第5代)に就任すると、昭和12(1937)年に貴族院勅選議員に勅任され林銑十郎内閣の大蔵大臣兼拓務大臣として就任した。林内閣が短命で崩壊した後の昭和12(1937)年7月からは、山形県米沢出身の池田成彬の後を受けて日本銀行総裁(第15代)となり、昭和19(1944)年3月まで6年半にわたり戦時金融の最高責任者として活躍した。
大正の絢爛資本主義の時代から、戦時の統制経済、計画経済の時代へと移り変わる難局のなかで財界人として大いに活躍し、昭和26(1951)年8月1日、74歳で死去。
趣味は「登山」「刀剣」で、若い時分には日本アルプス踏破のアルピニストの草分けとして知られた。墓所は故郷赤湯の東正寺にある。
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