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小藤文次郎が熊本地震(金峰山地震)の時に遺した格言(東京帝国大学名誉教授)[今週の防災格言435]

time 2016/04/18

小藤文次郎が熊本地震(金峰山地震)の時に遺した格言(東京帝国大学名誉教授)[今週の防災格言435]


『 怖るるなかれ熊本の市民諸君 』

小藤文次郎(1856〜1935 / 地質学者・火山学者 東京帝国大学名誉教授)

1889(明治22)年7月28日深夜23時40分、熊本市の金峰山麗を走る立田山断層を震源とするM6.3の直下型地震、熊本地震(金峰山地震)が発生した。

熊本城の東南から南部にかけての坪井川沿い半径約20km四方に被害が集中、住家400戸が全半壊し、死者20人、重軽傷者74人をだす大惨事となった。

翌月の8月7日頃までに200回もの余震が起り、飽田郡内では600ヶ所が地割れとなり、橋の落下や破損も多かった、という。

ちょうどこの地震の一年前、1888(明治21)年7月15日に会津磐梯山(ばんだいさん)が噴火し、山麓の村落が巻き込まれて福島県で多数の犠牲者(死者477人)がでたことから、熊本の被災者の間では「金峯山が噴火する」とのデマが飛び交い、二次災害を恐れて疎開しようとする住民らでごったがえしする騒ぎにまで発展することになる。

早くに被災地に入った地震学者らがまず行った仕事は、人心を鎮め混乱を収拾することとなった。小藤文次郎は『 怖るる勿れ熊本の市民たち 』と題する小論文を新聞紙面へ掲載し混乱の収拾に努めたという。


小藤文次郎 理学博士

小藤文次郎(ことう ぶんじろう)は、石見国鹿足郡津和野(現島根県津和野町)出身の地質学者。明治・大正時代の日本の地質学界草創期に地質学、岩石学、鉱物学、火山学、地震学と幅広い研究分野で活躍され、創業期の東京帝国大学地質学教室にあって、助教授・3代目教授ながらもその指導的役割を担った実質上の地質科育て親ともいえる人物。初の日本人名を冠した鉱物「小藤石(1939年)」の由来としても知られる。

安政3(1870)年、津和野藩士・小藤治生の長男として生れる。藩校養老館で国学漢文を修め、明治3(1870)年に津和野藩の貢進生の一人として上京、大学南校(後の東京大学の源流諸機関の一つ)に入学し当初は化学を専攻したが、間もなく貢進生制度が廃止されたため学費に困り、同郷の先輩・福羽美静(国学者で歌人 子爵 / 1831〜1907)を頼り、同時に専攻を地質学に改めこれを究めることにした。開成学校、東京開成学校を経て明治10(1877)年に東京大学が創立され、小藤は明治12(1879)年、東京大学地理学部地質学科の第一期生として卒業すると、直ちに内務省御用掛を命ぜられ、翌明治13(1880)年ドイツに留学してライプチヒ大学、ミュンヘン大学等で地質学を学び、明治17(1884)年帰朝。翌明治18年、東京帝国大学の助教授に任ぜられ、明治19(1885)年からは教授として地質学教室で多方面の研究を行った。
東京大学初代地質学教授のお雇い外国人ハインリッヒ・ナウマン(ドイツの地質学者 / 1854〜1927)に代わって日本人初の地質学教授となった原田豊吉(肺結核のため1889年辞職 / 1861〜1894)の病後は実質的指導に当たり、学位を受領した明治21(1888)年からは名実ともに日本の地質学界の権威として活躍。大正10(1921)年に退官してからも亡くなるまで研究を続けたという。80歳近い老齢で健康を害してからも、外出を引き止める家族に見つからぬようこっそり家を抜けだし大学の研究室へでかけた逸話も残る。昭和10(1935)年3月8日、風邪をこじらせ78歳で亡くなった。

金峰山地震(1889年)による熊本城の石垣被害

■「小藤文次郎」に関連する防災格言内の記事
関谷清景 (地震学者)(2008.08.11 防災格言)
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<防災格言編集主幹 平井 拝>

 

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