『 我国は天災国である。 』
藤原咲平(1884~1950 / 気象学者 中央気象台長 東京大学理学部教授)
格言は著書『天気と気候(昭和9(1934)年)』より。
曰く―――。
津波や地震等に対して後人を警(いまし)むる為に、石碑の立てられた事も徳川時代からある事で、吾々の祖先は決してこれに対して無関心ではなかった。しかし今日日常の経済関係は容易にこの不時の害敵に対する防御工作を完全にする余裕を与えない。而(しか)して事件が起れば諸新聞雑誌は筆を揃えて事前の準備の不足を責めるのである。
自分らはこれら天災の警戒に携わる職にあり、日夜その過誤なからん事を期しているものであるが、今回の大参事(※昭和9年9月20日の室戸台風)を充分に軽減し得なかった事に対し誠に慚愧に堪えないものである。嘗(かつ)て二宮尊徳が天明の飢饉に先だち、その当時、何等気象学もなく、又観測機器も組織もないにも拘(かか)わらず、その鋭利な観察力によって、「熱の地に残るも大気中に失はるる」を直観し、先ず、根菜類を作る事を奨め、次に稲に代えるに稗を以(もっ)てし、その為に烏山領の農民は露命(ろめい)を繋(つな)ぐ(※かろうじて生活を続けるの意)に充分な糧を得て、餓死者を出さなかったと云う記事を見て深く感じ又懼(おそ)れた。
今日吾々が斯業(しぎょう=事業の意)の為に大きな国費を費やして、而(しか)もなお予察(よさつ=前もって推察するの意)に足らざる所あれば、実に重大な曠職(こうしょく=職責を十分果たさないことの意)と云わざるを得ない。然るに今日の気象学は尚幼稚で、到底、凶歳(きょうさい=飢饉の年)を的確に予察するに至らない。然らば、非科学的の誹(そし)りを感受しながらも、二宮流の直感を働かせる外はない。而(しか)して、この事は到底吾等凡人の能(よ)く成し得る所ではない。又吾々はたとえこれを予察するにしても、なんらこれに対し準備すべき実行権力を持たない。しかしながら吾々は最善の努力をなし、誤てば即ち罪を天下に俟(待)つの外はない。
自分は本年年頭において或は今年の凶歳ならざるやを憂えた。併し尊徳の如く、必ず凶歳ありとの断言は不能であった。即ち只非公式に凶歳たる可能度の頗(すこぶ)る高きを指摘したに止まった。又今回の台風に際しても、暴風雨の虞(おそれ)あることをば指摘したが、その効果を挙げ得るに至らなかった。実に農林省の発表米作予想は一千二十万石の大減収を報告され、又台風による死者は三千人を超えている。誠に恐懼(きょうく)に堪えない次第で、それに就いても一面これら警告を有効ならしめる為め、気象知識の普及を計ることは、今日の一大急務たる事を痛感するものである。
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藤原咲平(ふじわら さくへい)は、日本気象学の草分けとして知られる地球物理学者の一人で「お天気博士」として親しまれた人物。2つの台風が接近し相互作用する「藤原の効果」を提唱したり、気象学・地震学分野の「渦動論」で世界的に知られている。
長野県上諏訪町(現諏訪市)生まれ。明治42(1909)年、東京帝国大学理科大学理論物理学科を卒業し、明治44(1911)年、中央気象台(現気象庁)に入り天気予報の研究などを行う。大正10(1921)年、気象台初の留学生として渡欧、ノルウェーの気象学者ヴィルヘルム・ビヤークネス(Vilhelm Friman Koren Bjerknes / 1862〜1951)教授に師事、前線論的新天気予報術を学び、帰国後の大正11(1922)年、中央気象台測侯技術官養成所(現気象大学校)主事、神戸海洋気象台技師に任命された。昭和元(1926)年、東京大学地震研究所員、翌(1927)年、寺田寅彦の後任として東京大学理学部教授兼任。昭和16(1941)年、岡田武松(1874〜1956)の後を受け第5代中央気象台長。戦時中は軍の嘱託で風船爆弾の研究にも携わり、敗戦後の昭和22(1947)年に公職追放された。以後は著述に専念し「日本気象学史」「改暦問題」「御神渡」「渦巻の実験」「日本気象史」など著した。昭和25(1950)年9月22日、65歳で没。作家・新田次郎(本名・藤原寛人)は甥、数学者の藤原正彦は大甥に当たる。
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