『 戦争は他の手段をもってする政治の延長にほかならない。 』
“ Der Krieg ist nichts als eine Fortsetzung des politischen Verkehrs mit Einmischung anderer Mittel.”
カール・フォン・クラウゼヴィッツ(1780~1831 / プロイセン王国の軍人・軍学者 最終階級は少将 『戦争論』著者)
格言はクラウゼヴィッツ『戦争論(Vom Kriege)』(1832年)より。
戦争は政治の手段にほかならないとの観点から、ナポレオン以降の近代戦争を体系的・総括的に研究分析した初の軍事戦略論で、今日でも各国の士官学校や研究機関で扱われている古典的名著である。
下巻、第6章「A.政治的目的が軍事的目的に及ぼす影響」「B.戦争は政治の一手段である」に曰く―――。
《 国家が他国の利益のために一肌脱ぐという事はあり得るが、しかしこれを自国の利益と同様に真剣に考えるという事は、決してないと見ていい。多少の援軍は派遣されるが、その援軍も事態の頽勢(たいせい)を挽回するに効無しと見るや、問題は既に殆ど片付いたと考え、出来るだけ少ない犠牲をもってこの危地から逃れ出ようとするのが人情である。 …(中略)…
曰く、戦争は政治的交通の一手段に過ぎず、それ故に決して独立なるものではない。
“daß der Krieg nur ein Teil des politischen Verkehrs sei, also durchaus nichts. Selbständiges”. …(中略)…
曰く、戦争は他の手段を用いる所の、政治的関係の継続に過ぎぬ、と。
“Der Krieg ist nichts als eine Fortsetzung des politischen Verkehrs mit Einmischung anderer Mittel.” …(中略)…
政治的着眼点が戦争の開始と同時に中絶せねばならぬという場合が可能であるとすれば、それは、戦争が全然単なる敵対的感情に由来する生死の闘争たる場合に限られている。しかしありのままの戦争に就いて見れば、先に述べた如く、戦争というものは、単なる敵愾心の発露ではなく、政治それ自体の表現に過ぎないのである。然りとすれば政治的着眼点を軍事的着眼点の下位に置くのは不条理であるといわねばならぬ、蓋し政治が戦争を生んだのであるからだ。政治が主宰者で、戦争は手段に過ぎない、その逆では決してない。 》
(出典:馬込健之助訳「戦争論・下」(岩波文庫 昭和8年))
カール・フォン・クラウゼヴィッツ(Carl von Clausewitz)は、プロイセン王国の軍人で軍事学者。最終階級は少将。
プロイセン軍将校としてナポレオン戦争(1799~1815)に従軍し、戦後は陸軍大学校長となり、軍事研究や著述に専念した。死後1832年に発表された『戦争論』で、絶対的戦争や政治的交渉の延長としての戦争概念の提唱、防御の優位性など戦略・戦術研究で大きな業績を残した。
1780年7月、プロイセン王国ブルクのポーランド系ドイツ人の家庭に生まれる。父親は七年戦争(1756~1763)に少尉として従軍し、退役後はブルクの徴税官として勤めた。
1792年、12歳で入隊し、フランス革命後の第一次対仏同盟戦争(1793~1797)の1794年のマインツ攻城戦で初陣を飾り、この戦闘で将校相当の准士官に昇進。15歳で少尉となり、連隊長推薦により1801年にベルリン士官研修所に入学。研修所所長だったシャルンホルスト中佐(1755~1813 / フランス革命戦争(1792~1802)でハノーファー軍参謀本部の指揮官として有名となり後にプロイセン軍初代参謀総長となった人物)に師事した。
1803年、士官研修所を首席で卒業し、卒業後はシャルンホルストの推薦によりアウグスト親王(プロイセン王子フェルディナントの五男)の指揮する近衛大隊の副官となった。
1806年、ナポレオンのライン同盟に危機感を覚えたプロイセン王国は、第四次対仏大同盟に参加しフランスへ宣戦布告するが、近衛大隊は1806年10月の「イエナ・アウエルシュタットの戦い」でフランス軍に大敗北を喫し、指揮官のアウグストとともにクラウゼヴィッツはフランス軍の捕虜となった。翌1807年のティルジット講和条約(プロイセンとフランスの講和条約)で釈放され、フランスの占領下にあるベルリンに帰還し軍備再編委員会議長としてプロイセン軍の軍制改革を進めるシャルンホルストの招きに応じ改革を補佐した。
1810年、新設された陸軍大学校の教官に任命される。1812年2月、プロイセンがフランスと軍事同盟を締結すると、クラウゼヴィッツは「プロイセン存続のためにはフランスとの同盟はありえない」と呼びかけこれに反対した。1812年6月、ナポレオンによるロシア遠征が始まると、プロイセン軍に辞職届を出し(※当時プロイセンはフランス占領下でフランス・プロイセン連合軍だった)、ベルリンを出奔してロシアのヴィルナにあるロシア防衛軍司令部を訪ね、ロシア軍中佐・第1騎兵軍団長付き参謀次長として兵站を担当した。
1812年10月、フランスのナポレオン軍は、ロシアの焦土作戦でモスクワで大敗北を喫する。
クラウゼヴィッツは、戦闘中にナポレオン指揮下のプロイセン軍とロシア軍の戦闘回避に奔走し、両軍の停戦交渉を成功させるとともに、ロシアに占領された東プロイセンをロシアから解放する「タウロッゲン協定」を締結させるなど活躍。これによりプロイセン国王は新政府を樹立しフランスとの同盟を破棄、1813年3月に、プロイセン新政府はフランスへ宣戦を布告した。
プロイセン解放戦争の緒戦に勝利した1814年、プロイセン国王に出奔を許されたクラウゼヴィッツは、プロイセン軍大佐として軍へ復帰した。
エルバ島脱出以降のナポレオン戦争では、クラウゼヴィッツは第3軍団参謀長となり、1815年6月の「ワーテルローの戦い」の勝利に寄与した。
1818年に少将に昇進し、陸軍大学校校長として勤務し、以降12年間で『戦争論』の大部分を書きあげ、1830年、50歳で校長職を辞した。
同年7月「フランス7月革命」に影響されてポーランドで暴動が発生すると、東方監視軍司令官付き参謀長としてこの紛争鎮圧にあたったが、作戦中にコレラに感染し、1831年11月16日に急死した。神経性ショックによる心臓麻痺が原因とされている。享年51。
死後、夫人により遺稿がまとめられ、1832年に戦史論や政治論などを含む『戦争論』が出版された。
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