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スペイン風邪で夭逝した村山槐多(1896~1919 / 洋画家・詩人)の遺書と名言(天候と死にまつわる論考) [今週の防災格言737]

time 2022/02/07

スペイン風邪で夭逝した村山槐多(1896~1919 / 洋画家・詩人)の遺書と名言(天候と死にまつわる論考) [今週の防災格言737]

『 神よ、私は死を恐れません。恐れぬばかりか慕ふのです。たゞ神さまのみ心に逆らって自殺する事はいたしません。 』

 

村山槐多(1896~1919 / 洋画家・詩人 スペイン風邪により夭逝)

 

10代からボードレールやランボーの作品に傾倒し、火の様な恋をして大失恋し、絶えず異常な性欲に苦しめられ、よく飲み、よく描き、よく歌い、22歳で夭逝した早熟の天才画家の村山槐多。

彼は、21歳で肺病(結核性肺炎)を患い、衰弱し、死の予感と戦うなかで、当時大流行したスペイン風邪(新型インフルエンザウイルスA(H1N1)型のパンデミック)にかかり、夜に病床を抜けだし行方不明となり、畑で昏倒していたところを友人が発見し、その2日後に22歳で亡くなった。1919年(大正8年)2月20日のことである。

 

…ここで、当時の天候をみてみよう。

1919年(大正8年)は東京によく雪が降った。
この年の2月1日は、最高気温2℃、最低気温はマイナス3℃。似たような寒い日が14日まで続くなか、2月9日には都内で24センチの積雪を記録する大雪となった。その後も東京の最低気温はマイナス1℃~1℃の間が2月17日まで続いた。きっと畑には雪が残っていただろう。
槐多が外に飛び出した2月18日も、最高気温6℃、最低気温2℃と、まだ東京は寒かった。
インフルエンザに苦しんでいた槐多の身体にはつらく寒い一昼夜だったのである。

 

さて、槐多は死の前に、二編の「遺書」のような手記を残している。
一つは、死の2月前の1918年(大正7年)年末に、二つ目は13日前の1919年(大正8年)2月7日に書かれたものである。

格言はこの手記から(出典:没後の著書「槐多の歌へる其後及び槐多の話」(大正10年))

曰く―――。

「遺書」

自分は、自分の心と、肉体との傾向が著しくデカダンスの色を帯びて居ることを十五六歳から感付いて居ました。
私は落ちゆく事がその命でありました。
是れは恐ろしい血統の宿命です。
肺病は最後の段階です。
宿命的に、下へ下へと行く者を、引き上げやう、引き上げやうとして下だすつた小杉さん、鼎さん其の他の知人友人に私は感謝します。
たとへ此の生が、小生の罪でないにしろ、私は地獄へ陥ちるでしやう。最底の地獄にまで。さらば。

一九一八年末 村山槐多

※「小杉さん」は小杉未醒(後の放庵)(1881~1964 / 洋画家・日本画家・歌人・随筆家)。槐多は18歳の時、鼎の友人の小杉未醒(みせい)に師事した。
※「鼎(かなえ)さん」は槐多の母方の従兄の山本鼎(1882~1946 / 版画家・洋画家・教育者)のこと。

「第二の遺書」

神に捧ぐる一九一九年二月七日の、“いのり”の言葉。
私はいま、私の家へ行って帰って来たところなのです、牛込から代々木までの夜道を、夢遊病者の様にかへって来たとこです。
私は今夜また血族に対する強い宿命的な、うらみ、かなしみ、あゝどうすることも出来ないいら立たしさを新に感じて来たのです。其の感じが私の炭酸を満たしたのです。(中略) (※「中略」は原文ママ)
あゝすべては虐げられてしまったのだと私は思ひました。何度か、もうおそらく百度くらい思った同じことをまた思ひました。
親子の愛程はっきりと強い愛はありましょうか、その当然すぎる珍しからぬ愛でさへ私たちの家ではもう見られないのです。何といふさびしい事でしょう。
しかも、とりわけて最もさびしい事は其の愛が私自身の心から最も早く消えさってゐることなのです。私は母の冷淡さをなじっても、心に氷河のながれが私の心の底であざわらってゐることを感ぜずには居られませんでした。私がかく母をなじり、流行性感冒の恐ろしさを説き、弟の手当を説いたかなりにパウシヨラケート(※原文ママ パッショネート(多情多感)の誤りでないかと言われる)な言葉も実は、私の愛に少しも根ざしてはゐないのでした。それどころか、恐ろしい、みにくい、利己の心が、たしかに其の言葉を言はせたのです。眞に弟を思ったのではないのです。私はたゞたゞ私自身の生活の自由と調和とが家庭の不幸弟の病気等に依ってさまたげられこわれんことを恐れて居るのです。弟の病気が重くなっては私の世界が暗くなかる(※原文ママ)からなのです。
ああ眞に弟を思ひその幸福のためにいのってやる貴いうつくしい愛はどこへ行ったのでしょう。またはいつ落としてしまったのでしょう。其れはとにかくない物なのだ。私の心のみか、私の家の中にはどこにもないものなのだ。何たるさびしさでしょう。私は母をなじって昂奮して外へ飛び出し、牛込から乗った山の手電車の入口につかまってほんとに泣きました。涙がにじみ出ました、ほんとです。ほんとです。このさびしさが泣かずにゐられましょうか。私は泣きました。愛のない家庭といふ世にもみにくい家庭が私のかゝり場所かと思って。それよりも私を、このみにくい私を、何たる血族だらう。このざまは何だらう。虐げられてしまったのだ。すっかり虐げられてしまったのです。もとはこれではなかった。少なくとも私の少年時代は。
神さま、私はもうこのみにくさにつかれました。
涙はかれました。私をこのみにくさから離して下さいまし。地獄の暗に私を投げ入れて下さいまし。死を心からお願いするのです。
神さま、ほんとです。いつでも私をおめし下ださいまし。愛のない生がいまの私のすべてゞす。私には愛の泉が涸れてしまひました、ああ私の心は愛の庭園です。何といふさびしさ。
こんなさびしい生がありましやうか。私はこの血に根ざしたさびしさに殺されます。私はもう影です。生きた屍です。神よ、一刻も早く私をめして下ださいまし。私を死の黒布でかくして下ださいまし。そして地獄の暗の中に、かくして置て下ださいまし。どんな苦をも受けます。たゞ愛のない血族の一人としての私を決してふたゝび、ふたゝびこの世へお出しにならない樣に。
私はもう決心しました。明日から先はもう冥土の旅だと考へました。
神よ、私は死を恐れません。恐れぬばかりか慕ふのです。たゞ神さまのみ心に逆らって自殺する事はいたしません。
神よ、み心のまゝに私を、このみにくき者を、この世の苦るしい涙からすくひ玉はんことを。くらいくらい他界へ。

 

親友の山崎省三(1896~1945 / 洋画家)による、槐多の人となりが分かりやすい。

“ すべてにエキセントリックな性格、ゆっくり歩くことは無く、絶えず走って飛び上がっているから、着物はすぐよれよれになってしまった。要するに彼のすべては早いのである。
眼は近視眼で眼鏡が必要だったが、眼は物を射透した。本はかなり厚いものでも一晩で読んでしまった。食事は人の三倍の早さ。煙草は一日に二、三箱吸う。足は一日に二十里も突っ走る速さ。しかも、休んでいる事がないのである。
口は才気煥発。比喩に富んでいて奇想天外の警句を連発する。透き通る声で、歌は粋であった。彼の口はキッスもよくした。モデルなど、旨く手なづけて、どこへでもキスして逃げてしまう。その時、両の足と体全体がしなやかに飛び上がる。それは彼女を怒らせずに笑わせるものであった。絵を描く速さも特別であった。彼は、すべてに、あまり早過ぎた。 ”

…早熟の天才と呼ばれる所以でもある。

 

村山槐多(むらやま かいた)は、大正時代に活躍した洋画家・詩人。
1896年(明治29年)9月15日、小学校教師村山谷助、たまの長男として、愛知県額田郡岡崎町(現・岡崎市)に生まれる。両親は森鷗外の紹介を通じて結婚しており、槐多は鷗外の命名ともいう。
1900年(明治33年)、父の赴任に伴って一家は京都市に移住。京都府師範学校附属小学校を経て、旧制京都府立第一中学校を卒業。従兄弟で版画家・洋画家の山本鼎の影響で、文学や美術を志し、1914年(大正3年)父親の反対を押し切り、画家を志して上京。鼎の紹介で小杉未醒の邸内に寄宿し、第1回二科展に作品4点を出品し入選。横山大観がうち1点を買い取った。日本美術院研究生となり、高村光太郎、柳瀬正夢らと親交を深め、以降表現主義的な作品で注目された。
1918年(大正7年)4月、肺病(結核性肺炎)を患い喀血。千葉県で療養するなか死の恐怖と戦い、自殺を試み、千葉の岩礁の上で酒を飲んでは血を吐いてを繰り返した末に昏倒する。病後、東京に戻り、牛込に越した両親と同居せずに、11月、代々木の奥の田舎に一軒家を借りて住んだ。すぐ隣に半鐘があったので「鐘下山房」と命名する。以降猛烈な勢いで作品を描くが、翌1919年(大正8年)2月、スペイン風邪にかかり2月20日に22歳の若さで亡くなった。

…さて、槐多が大病を患い、大きく精神を病み、死を暗示させる詩句を多数書いた1918年(大正7年)中旬から年末の時期、日本では、ちょうど「流行性感冒」と呼ばれるスペイン風邪パンデミック(新型インフルエンザウイルスA(H1N1)型)の第一波が始まった頃と一致する。
1918年(大正7年)5月頃から8月下旬に流行が始まり、槐多が代々木に越した11月頃には全国的な大流行となって毎日のように数百人の死者が新聞紙面をにぎわしていた。

流行性感冒は、突然の高熱と倦怠感、関節痛など全身症状で始まり、その後、咳や鼻水など呼吸器症状が現れて、重症化すると肺炎で亡くなる。通常の季節性インフルエンザの死者の大部分が65歳以上の高齢者で占める一方で、逆に、この流行性感冒(スペイン風邪)では20歳~40歳代の青壮年層に多くの死者がでた。槐多が肺病に襲われた1918年(大正7年)4月時点では、まだ新型ウイルスの恐怖はなかった。結核性の肺病と診断されたばかりの若い槐多にとって、療養中に日々刻々と死者の数が増えていった現実(ニュース)は、彼の精神を蝕むほどに、未知のウイルス性肺炎と死の恐怖を刻み付けていったのだろう。

日本の流行性感冒では、「第1波(1918年8月~1919年7月)」で死者25万7千人、「第2波(1919年9月~1920年7月)」で12万8千人、「第3波(1920年8月~1921年7月)」で3,698人が亡くなったという。(参考資料:内閣官房:スペインインフルエンザ(後半)


写真、Wikipediaより






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著者:平井敬也(週刊防災格言編集主幹)

 

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