『 飯を炊くには、盥へ土をぬり、其の上にてたき候事 上策なり、水の浅深に従ひ浮沈して水の入る事なし。(水害時の教訓) 』
奥貫友山(1708〜1787 / 江戸中期の儒者・教育者 慈善家)
奥貫友山(おくぬき ゆうざん)は、江戸時代の武蔵国川越藩領久下戸村(埼玉県川越市)の名主で、私塾を開き、近隣の子弟に学問を授けた教育者である。
1742(寛保2)年の「寛保の大洪水」(台風により荒川・利根川が決壊し現在の埼玉県を襲った江戸時代最大の洪水)では、私財を投げうって、罹災者救済にあたった。この時、自らの田畑を江戸商人に質入し、その金で食糧を買い、一年に渡って救援し続け、48ヶ村の10万6千名の命を救った。
後の明和の凶作で一揆が発生したとき、盗賊が富豪の家を焼討する中、奥貫家だけには誰も手を出さなかった。悪徒たちは奥貫家の門前に並んで手を合せ伏し拝んで立ち去ったという。
格言は友山の手記「大水記」から。この手記は寛保の大洪水の被害状況や、自ら行なった救済活動、藩からの褒賞、その活動から得た教訓などを克明に記録したもの。
参考資料 ◎奥貫友山の水災救助について補足
「 平生節倹をつとめ、時あるに臨みて家財をつくして公衆の救難に致す、陰徳(陰得)あるもの何ぞ陽報あらざらん。 」
武蔵国川越の近ほとり久下戸村といふに奥貫友山といふ人がある。通籍は五平次といひ、その名を正卿といつたが、成島錦里(錦江)といふ幕府の儒者に就て学問を修め、専ら實業を尚(とうと)んで虚文(内容の乏しい文章)を斥けて居った、彼の青木昆陽、中村蘭林などは最も親しい友達であったが、見る人いづれも皆他日きっと役に立つ人だといって居ました。
寛保二年に関東に大洪水があって、川越の近傍は最も水災が甚しかった、その時に友山が、その父に語るには、
「父上よ、平生倹約せよ、倹約せよと仰せありしは、今日の如き不時のことがあるためでありませう、願くは家財をなくしてもこれを救ひたいと思もひます、御許し下さるでありませうか」
思ひ込んだ友山の言葉に、その父も心うれしく、
「それこそ固(もと)よりわが望むところである」
といって、そこで倉をひらいてどしどしと施しましたから、飢民ともはわれ先きにと集つま来て、門前には市をするほどでありました。
友山は多くの粥をこしらへて、丁寧親切にこれをもてなし、その上に老人といはず。子供といはず、一人毎に米四升づつを與(あた)へましたが、来る人は多く貯へた米には限りがあるから、僅かの間に米がなくなると、又金を出して四方から米を買ひ集めさせて救助に充て、その金が盡(尽きる)くるときは田畑を江戸の大きい商人のところに質入して、その金でまた白米を買っては救ふといふ有様であったから、その年の十月から翌年の四月になるまでに、奥貫家の恵みのために生命をつなぐものが、四十八ヶ村十万六千余人におよんだといふことであります。
されば川越候は大いに友山を徳として、ことさらに召出し、時服や佩刀(はいとう)を賜はり、その上に厚き酒膳を設けてもてなされました。
最初この洪水のあるにおよんで、幕府においては、飢民が四方に離散するを心配して、一切他村へ出ることを禁じましたれば、かねて富豪の名なる人々が、施行せんとおもふものもあったけれど、幕府からこの禁制があったといふことを聞いては、その志を果さぬものもありました、そこで友山は江戸に出て、その師成島錦里(錦江)先生に面会して、幕府の禁止の命令が不利益であるといふことを申し立てたから、錦里(錦江)も有理のこととして、早速書面をもってその次第を幕府に言上したから、その日ただちにこの禁を解かれました、そこで富民どもがあちらこちらと財産を出して飢民を救へましたから、爲めに餓死を免るるものが多かったといふことである。
明和年中に武蔵上野の二国が凶作であって、食を得ぬものが多かったから、貧民どもが盗みをしたり、富豪をおびやかしたり、またはそれ等の人の家を焼き拂はんとして、すでに友山の家にまで及ばんとせしところへ、一人の悪徒仲間が走せ来つて大聲(大声)に呼ばるには、
「これこそは音にも名高い奥貫様の家である、先年わが祖父母、父母、兄弟どもが、水災のために一命の危きところを助けて下さったのは、全く奥貫殿の御恩である、かならずともに手をつけてはならぬぞ」
と、多くの人々を制しましたから、寄り集った多くの人々は大いに驚いて、皆一様に奥貫の門前にづらりと並んで、手を合せ伏し拝んで立ち去ったといふことである、友山の如きはまことによく施すことを知った人であります。
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