『 少しの事も心に許す所あれば、大きに誤る本となる。 』
北畠親房(1293〜1354 / 南北朝時代の公卿 『神皇正統記』著者)
格言は著書『神皇正統記(1343年)』巻二より。
曰く―――。
すこしの事も心にゆるす所あれば、大きにあやまるもとゝなる。周易に霜を履(ふ)んで堅氷(けんびょう)に至ると云ふ《以下省略》
「心に許す」は “油断をする” ことの意味。
霜の降り始めは秋と冬の間にあるのでまだ寒くはない。しかし、霜が降るとだんだんと寒さが激しくなり、やがて氷が厚く張るような厳冬となる。だから、霜の降りだした時にこそ、やがて寒い季節が来るということを知らなければならない。
鎌倉時代後期から南北朝時代の公卿・北畠親房(きたばたけ ちかふさ)は、後村上天皇(在位:1339〜1368年)のため吉野朝廷(南朝)の正統性を述べた歴史書『神皇正統記(じんのうしょうとうき)』を著した人物として知られる。村上源氏北畠家(奈良県五條市賀名)の生れで生後間もなく叙爵。父は右衛門督・北畠師重、母は藤原隆重の女。8歳で元服、父の出家に伴い15歳で家督を継いで公卿となり、18歳で権中納言、27歳で中納言、32歳で大納言となった。
南朝初代天皇・後醍醐天皇(在位1318〜1339年)の代に吉田定房や万里小路宣房らとともに「後の三房」と呼ばれる厚い信任を得て順調に出世、皇子世良親王の乳人や内教坊(ないきょうぼう)別当などに任じられ源氏長者(源氏のなかで最も官位が高い者)となる。元徳2(1330)年、38歳の時に世良親王が急死し、出家して政界を一時引退。鎌倉幕府討幕後の建武の新政で政界に復帰。建武2年(1335年)、新政府のあり方を巡り後醍醐天皇らと足利尊氏らが対立すると醍醐天皇の南朝(吉野)に従い北朝に対抗した。長子の顕家(あきいえ)とともに皇子・義良親王を奉じ、奥州、吉野や伊勢で活躍するが、建武5(1338)年の京都攻めで顕家が戦死。翌年天皇崩御し、親王は後村上天皇として即位、親房は、小田城(現茨城県つくば市)で南朝のための東国工作に奔走していたこの時期『神皇正統記』を完成させたという。その後、正平3年(1348 / 貞和4)年に楠木正行(楠木正成嫡男)が戦死、吉野宮炎上により後村上天皇と親房らは賀名生へと移り、親房はその地で正平9(1354 / 文和3)年に62歳で没した。親房を失った南朝は、その後、北朝との和睦へと傾いて行き、皇室は元中9(1392 / 明徳3)年に合一を迎えることとなる。
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