大正十二年九月一日正午、突如として起れる大地震は、今や大都市経営に一指を染めかけたる東京都を襲ひて、一瞬の間にこれを粉砕し尽したり。(日本聯合通信社「関東大震災写真帖」1923年より)…今から98年前の「関東大震災」は、東京・神奈川・千葉・埼玉・静岡に、地震と津波そして大火災が襲い、10万を超える人命を一度に奪う大災害となりました。未曽有の天災は人心の混乱を呼び、様々な流言が飛び交って深刻な社会事件を誘発しました。多くの教訓を残した震災を忘れないよう、政府は毎年9月1日を“防災の日”と定めて後の世に警鐘を鳴らしました。さて、秋山進氏のシリーズ連載「リスクの本棚」では、緻密な歴史資料や証言をもとに構成された記録文学の傑作・吉村昭『関東大震災』(菊池寛賞受賞作)を取り上げていただきました。
連載・リスクの本棚~リスクに関わる名著とともに考える~vol.13
吉村昭 『 関東大震災 』 (新装版2004年 初版1973年)
「(過去の大地震の中で)最も激烈なりしもの、即ち多数の壊家及び死人を生じたものは慶応二年、元禄一六年、安政二年の三回の大地震であって此等は皆夜間に起った。さうして此三大震は平均百年に一回の割合に発生して居り、尚ほ最後の安政二年以後既に五十年も経過して居るから、今後五十年以内には斯ういう大地震に襲われることを覚悟しなくてはならない」
東京帝国大学理学部地震学教室の今村明恒助教授は、1905年に雑誌「太陽」に地震百年周期説を発表した。ちなみに、慶安二年は1649年、元禄十六年は1703年、安政二年は1855年である。
関東大震災 (文春文庫) |
さらに、東京は、過去の江戸の時代よりも災害事情が深刻であるとした。石油ランプ等の新器具で火災原因は増え、延焼も容易になっている。水道管は地震が来たら破壊され消防能力も失われることが想定された。道路は狭く人は簡単に逃げられないため、過去の江戸大地震よりもはるかに多い死者が出る。その数字はおそらく10万名から20万名にも達するのではないか、というのが今村助教授の主張であった。
ところが、この論文発表を好ましく思わない者がいた。今村の上司の立場にあたる東京帝国大学地震学教室の主任教授である大森房吉氏である。
大森教授は、50年以内に大地震が東京を襲うという今村助教授の予測には同意できなかった。過去の地震発生を統計的に研究することに問題はないが、それを唯一の根拠に地震の到来を予測することが、果たして学問的に許されるかどうか疑問を持っていたのである。さらには今村の百年周期説は、地震に対して無知な一般人に動揺を与えるおそれが十分にある。地震学研究者は、社会的影響も十分考慮して発言すべきであるというのが大森の考えであった。
「東京が非常の震災をこうむるのは平均数百年に一回と見なしてさしつかえない」「今にも東京全市が全滅する程の大震が襲来すべしなどと想像するは全く根拠なき浮説」
大森の反論は何度も繰り返され、また学者たちも大森の説を支持する者が多かったので、市民の間に広がった恐怖は徐々に薄らいだ。同時に今村のことを“ほら吹き”と非難する動きも広まった。
ちなみに、この二人のプロフィールを紹介すると、大森房吉氏は東京大学地震学教室の主任教授。東京帝国大学物理学科卒業後、地震学研究に入った。独創的な頭脳で、水平振子微動計を発明し、地震帯を発見した。多岐にわたって優れた業績をおさめ、日本の地震学研究の最高権威であると同時に世界地震学界の第一人者とも言われていた。
一方、今村明恒助教授は、東京帝国大学理学部卒業後、陸軍士官学校の教官になり、地震学の研究に従事し東京帝国大学助教授も兼ねていた。大森との年齢は2歳違い。師弟というよりは、先輩・後輩の関係である。大森教授のもとで助教授の任に甘んじてはいたが、大森の学説にもひそかに異論をいだいていた。
そしてこの百年周期説に関する意見の対立をきっかけに、二人の間には学者として、また人間としても深い溝ができたのであった。
大森房吉(左)氏 と 今村明恒(右)氏 |
そして大地震が起こった
さて事実は読者もご存じの通りである。今村助教授の説が現実となった。98年前の今日、今村助教授の論文発表から18年後の1923年9月1日11時58分。マグニチュード7.9の巨大地震が発生したのである。
震源地は東京市南方約100キロの相模湾の海底。相模湾の南西部にあたる深さ1300mの海底が、長さ24キロ、幅2キロから5.5キロの広大な部分にわたって、百メートル以上も陥落した。反動で湾の北東部では、逆に海底が100m以上も隆起した。
その影響で湾内の海水は激しい動きをしめした。それは津波となって沿岸各地を襲った。規模は大きく大島の岡田で12メートル、伊豆半島の伊東で12メートル、房総半島の南端布良付近で9メートル、三浦半島の剣ヶ埼で6メートル、鎌倉で3メートルの高波となって襲来した。そして伊東では、人家三百棟が洗い流され、熱海で50戸、布良で90戸が流出した。
被害の状況は、本書にも詳しいが、Wikipedia「関東大震災」によりコンパクトにまとめられている。
全体では、約190万人が被災し、10万5,000人あまりが死亡あるいは行方不明になったと推定されている(犠牲者のほとんどは東京府と神奈川県が占めている)。建物被害においては全壊が約10万9,000棟、全焼が約21万2,000棟である。
東京の火災被害が中心に報じられているが、被害の中心は震源断層のある神奈川県内で、振動による建物の倒壊のほか、液状化による地盤沈下、崖崩れ、沿岸部では津波による被害が発生した。
地震の発生時刻が昼食の時間帯と重なったことから、136件の火災が発生した。大学や研究所で、化学薬品棚の倒壊による発火も見られた。能登半島付近に位置していた台風により、関東地方全域で風が吹いていた。火災は地震発生時の強風に煽られ、本所区本所横網町(現在の墨田区横網)の陸軍本所被服廠跡地ほか、現在の墨田区立両国中学校や日本大学第一中学校・高等学校などで起こった火災旋風を引き起こしながら広まり、旧東京市の約43%を焼失し鎮火したのは40時間以上経過した2日後の9月3日10時ごろとみられる。
火災による被害は全犠牲者中、約9割に上る(当該の統計情報によれば、全体の犠牲者10万5,385人のうち、火災が9万1,781人を占めた)ともいわれている[31]。火災旋風により多くの被災者が吹き上げられた。
本書では、これらの被害が広がるさまがリアルに記述されており、また震災後の流言飛語(大津波到来など)の数々。事実無根の朝鮮人来襲説とそれに続く自警団とそれらの暴行行為。憲兵による社会主義者大杉栄殺害事件。大規模な略奪行為と不衛生な都市の状況などが詳しく述べられている。極限状況にある人間というものがどのような行動をするのか、読んでいてつらくなる。
さて、ここでは大森―今村問題に限って論評してみたい。
何かが起こったとき、その道の専門家に意見を聞くという行動文法は一般化している。しかしながら、どの領域でも学説はいろいろあって内部で対立している。したがって聞く専門家によって意見は異なるものである。さらに重要なことは、最高権威であればあるほど学問的に確立されたことだけしか言えない、ということなのである。その結果、最高権威は、新奇性があり未確定なことに関しては、案外無力で役に立たない。
一方で、そこまで偉くない人のほうが、失敗をおそれずに自由にものが言える。
重要な意思決定が行われる際に、学者ですら意見が分かれることに対して、トップが誰の意見を参考にすべきか。一般的には最高権威ということになろう。しかし、新奇性が高く、未確定なことに対しては、新進気鋭の学者の説のほうが正しいことも十分にある。
最高権威のアドバイスにしたがっておけば、たとえ結果が悪くても、「しかたがなかった」と世間は納得してくれるだろう。一方、新進気鋭の学者の意見を採用して失敗したら、すべて自分の責任になってしまう。よって最高権威の意見に従っておくほうが無難である。しかし、あくまで一般的な話ではあるが、先述したような理由から、学者のなかで意見が割れるようなことに関して最高権威の意見に従うと、失敗確率はより高いのではないかと私は考えている。
関東大震災69周年周期説
実は、その後、大森や今村の後輩にあたる東京大学地震研究所の河角廣所長が「関東大震災69年周期説」を唱えたことがある。関東大震災から69年後といえば1992年。世の中は多いに恐れたが、幸いなことにこの説は当たらなかった。
河角廣 氏 |
その後の研究によって、その説の間違いの理由が明らかになった。南関東で周期的に発生する地震は2種類あり、1つは70〜80年に1回発生するM7クラスのプレート内地震、もう1つは約200年に1回発生するM8クラスのプレート間地震だというのだ。
200年に一回のプレート間地震は、直近が関東大震災(1923年)、その前は元禄関東地震(1703年)、明応関東地震(1495年)、永仁関東地震(1293年)である。すると次のM8クラスの大震災は2130年前後ということになる。
一方、M7クラスのプレート内地震の周期は70〜80年であり、今後数十年以内に南関東で地震が発生する可能性はかなり高いと考えられているのである。政府の地震調査委員会の推定では、南関東での直下型地震の発生確率(M7前後)は2007年~2036年の30年間で70%とされている。
ただ、実際に当たるかどうかはわからない。これまでも、来るはずの東海大地震はちっとも来ずに、他の地域で大きな地震が起こっている。しかしながら、統計的に考えれば、M7クラス以上の地震が関東地域にやって来るということは、ほぼ確実なのである。よって我々がすべきことは、もし、その日が来てもしっかりと耐えうるように、準備しておくことなのである。
評者:秋山 進(あきやま・すすむ)
1963年、奈良県生まれ。京都大学経済学部卒。リクルート入社後、事業企画に携わる。独立後、経営・組織コンサルタントとして、各種業界のトップ企業など様々な団体のCEO補佐、事業構造改革、経営理念の策定などの業務に従事。現在は、経営リスク診断をベースに、組織設計、事業継続計画、コンプライアンス、サーベイ開発、エグゼクティブコーチング、人材育成などを提供するプリンシプル・コンサルティング・グループの代表を務める。国際大学GLOCOM客員研究員。麹町アカデミア学頭。
主な著書に『「一体感」が会社を潰す』(PHP研究所)、『それでも不祥事は起こる』『転職後、最初の1年にやるべきこと』(日本能率協会マネジメントセンター)、『社長!それは「法律」問題です』(日本経済新聞出版)などがある。
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