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【リスクの本棚(連載第8回)】中谷内一也『 リスクのモノサシ ~安全・安心生活はありえるか~ 』(2006年) | 著者:秋山進

time 2021/04/01

【リスクの本棚(連載第8回)】中谷内一也『 リスクのモノサシ ~安全・安心生活はありえるか~ 』(2006年) | 著者:秋山進

複雑高度に発達した現代社会には多種多様な“ リスク ”が蔓延しています。私たちは日常生活のなかでも、新聞やテレビやインターネットといったメディアなどから、様々な“ リスク情報 ”に曝露され続けているとも言えます。私たちがリスク社会を生き残るために、どういったリスクがどの程度危険なのか、といった自分なりのリスクの指針が必要なのかもしれません。前回(第7回)でインテリジェンス(情報戦)とリスクについて紹介いただきましたが、秋山進氏のシリーズ連載「リスクの本棚」の第8回は、リスク心理学の専門家である中谷内一也・同志社大学心理学部教授の本書を取り上げていただきました。


連載・リスクの本棚~リスクに関わる名著とともに考える~vol.8

中谷内一也『 リスクのモノサシ ~安全・安心生活はありえるか~ 』(2006年)

著者:秋山進(プリンシプル・コンサルティング・グループ代表)



リスクの管理者は、リスク事象とともに、リスクに関する情報のもたらす風評や人々の動揺とも戦わなくてはならない。2006年に出版された本書は、後者についての対応を考えるうえでの優れた解説書であり、今日読んでもたいへん示唆に富む。

目の前に甚大な被害が明らかになっていない時点で、将来の被害を予測し、対策を立てて被害を抑えようとする営みをリスクマネジメントと呼ぶ。

このとき、

実態としての被害そのものではなく、被害予測についての情報、すなわちリスク情報が人びとに不安をもたらし、そして、この不安によって個人レベルにとどまらず、社会全体に大きな影響が引き起こされる。

著者はこのリスク情報が生み出す影響について以下の3つの観点から分析を進める。

    ・ マスメディアの情報提供の在り方
    ・ 専門家によるリスク表現と専門家の対立
    ・ リスク情報を受け取り、解釈する個人の心のしくみ


●マスメディアの情報提供の在り方

マスメディアの報道には、幅広いリスクの中でもっとも深刻なものを強調し穏当なものにはあまり注意を向けないという傾向がある。さらには、受け手の注意をひきつけたいという動機から必要以上に不安をあおり、社会の間に不必要な問題を引き起こす側面がある。これらの背景には「社会に向けて警告を発する」というマスメディアの役割意識があるが、この正義感のもとでは、作り手自身が意識するかどうかは別にして、自己正当化のしくみが働きやすい。


リスクのモノサシ
―安全・安心生活はありえるか―
(NHKブックス)

また報道の内容については、その(被害者)数だけではなく、その母集団の大きさが情報として必要だが、それらが欠落していることが多い。さらには、たとえば薬が不足していることも問題であるし、薬の副作用が強いことも問題であり、これらの両方を報道することがリスクマネジメントを進めるために必要なことであるにもかかわらず、一側面からの報道しかなされないことのほうが圧倒的である。

したがって、メディアのリスク情報を一つだけ受け取って、それが真実であると信じ込んではいけないのである。


●専門家によるリスク表現と専門家の対立

専門家がリスクを表現するときの表現のしかたや専門家同士の対立が、マスメディアを通して人びとの不安を増大させることも常である。

リスクがないと言えない、起こりうるかもしれない、絶対に影響がないことはない…等の発言が専門家からなされることがあるが、これは論理的には正しい。しかし、このような問題提起の仕方は、それを受けとめる一般人にとってはただ不安が高まるだけで、意思決定や行動の良きアドバイスとはならないのである。

さらには、いろいろな観点からの情報が豊富にあればあるほど、受け手の混乱が小さくなるのかというとそうともいえない。単に正しい情報をたくさんもらっても一般人はその意味するところを解釈できない。

よくあることだが、専門家の意見が分かれている場合には、一般人はどちらが正しいのかを判断することはできない。メディアが、リスクについての矛盾する意見を報道するのは、専門家内の判断の不一致を反映したものであることが多いが、このような報道をされても、受け手はただ困惑するのみである。


●リスク情報を受け取り、解釈する個人の心のしくみ

リスク情報を受け取る私たちが勝手にリスクを過大視し、不安に陥ってしまうこともある。

われわれがリスクを認知する際に、それを構成する2つの因子がある。

その一つは、その事象の「恐ろしさ」である。具体的には、コントロールは困難か、世界的惨事となりうるか、致死的なものか、不平等に降りかかるか、将来世代への影響は高さそうか、削減することは難しいか、増大しつつあるか、非自発的にさらされるか、といった内容である。

もう一つの因子は、「未知性」である。観察できないものか、さらされている人にもわからないか、遅れて影響が現れるか、新しいものか、科学的によくわかっているか、といったことになる。

この2つの因子を感じると、リスクがあると認識する。とくに、未知数因子の諸項目に適合するような印象を強くもつ災害や新しい技術は、科学的に評価すると大きなリスクではなくとも、私たち一般人は大きいリスクと感じてしまう。

われわれは、普段からこれらの因子に強く左右されている。そして恐ろしさや未知性をもった生生しい単一事例に強く影響され、統計的な視点からの全体感を見失うことが知られている。


●必要なリスクのモノサシ

このように、われわれはリスク情報につねに翻弄されている。そこで著者は、リスクを適切にコントロールするために、リスクを測る共通のモノサシが必要だという。

たとえば致死に至るリスクについて

最近では、食中毒で命を落とすというのは雷に打たれて死ぬことに比肩するくらい小さなリスクになっている。入浴中に水死するリスクは自動車事故よりは低いが火事よりは高いというレベルに位置している。

これは、一定人口のもとに、それぞれ発生する事象の確率を測定することによって異なるリスクを比較したものである。そしてこのような定量的な分析をもとに、インパクトがあり目立つ事象の制御のために大きな社会資源を投入するのではなく、より多くの命が危険にさらされるような真に大きなリスクを持つ問題の解決に優先して力を投入すべきだと言う。

当たり前に見えるかもしれないが、実行することは難しく、重要な指摘である。


●人はまじめにリスクを計算して対応しない。

しかしながら、多くの場合、人はリスクを見積もることに注力することなく、無視するか、リスクを発生させる行為そのものをやめてしまうかのどちらかになりがちである。

たとえば、狂牛病が大きな話題になり、その恐怖から牛肉の消費量が激減したことがあった。このとき、もし我々が、この事象を強い動機づけと能力をもってしっかりと判断する(中心的ルート処理と呼ばれる)ことをすれば、牛肉を食べることでクロイツフェエルトヤコブ病に罹患する可能性が極小であることはすぐに明らかになる。したがって、牛肉を控えるといった行為になることはなかったはずである。

しかし、情報を集め、定量的にリスク評価することは知的負担がかかって面倒である。そこで周りの人の風評などに基づいて意思決定する(周辺的ルート処理と呼ばれる)方法がとられる。そうすると、なんとなく怖いからやめておこうということになる。

すでにわれわれは、食に関して選択肢が多くある豊かな消費社会を実現したがために、消費者が認知的負荷の高い中心ルートで処理をするほどの動機づけを持たなくなってしまったのである。

その結果、別のもの(たとえば豚)を食べていればよいかということになり、突然、牛の消費量ががた落ちするといった現象が起こってしまったのである。・・このことにより、健全な牛肉を生産していた農家その他に大きな影響が及んだ。


●リスク管理者への信頼の重要性

このように我々は意思決定に負荷がかかるようなことはできれば避けたい。そこでリスク管理者(行政のトップなど)に判断をまかせ頼りたいという気持ちを持つことになる。そのとき、もしリスク管理責任者に対する信頼が厚く、かつ信頼されるようなリスクマネジメントの体制があれば、多少の事件があってもパニックになることもなく、望ましい社会情勢が生まれる。

一般に、リスク管理責任者への信頼が高いと人びとはリスクを低く評価し、ベネフィットを高いと見積もる。逆に信頼が欠如していると、リスクは高く、ベネフィットは低いとみなす。信頼できるリスク管理者がいるといないとは大違いである。

ところで、このリスク管理者。伝統的にはその信頼性は、能力と動機づけによって生まれると考えられてきた。

能力は、専門知識や経験、資格を有し、適切にリスクをコントロールすることができる、と思われているということである。一方、動機づけは、人びとへの配慮を重視しているか、誠実さや正直さがあるかといった姿勢をもとに、手続き的な公正さ、オープンであろうとしているか、などから判断される。

長年、能力と動機づけを重視するこの信頼モデルは有効と考えられてきたのだが、この伝統的なモデルに従ってリスク管理者を設定する従来のやり方だけでは、市民一般の信頼を得るには十分でないことが明らかになりつつある。

実は、人びとは公正な目で能力や動機をチェックしているのではない。むしろ、たとえば、「私が重要だと思う自然保護を彼らも重要だと考えているから、彼らは信頼でき、公正で、有能だ」という自分のモノサシで信頼が評価されており、能力や誠実さそのものが評価されているのではないのである。

これを主要価値類似性(SVS)モデルと呼ぶ。ある個人が自分の主要な価値と、リスク管理責任者の主要な価値とが同じであると認知すると、同じであることによって、そのリスク管理者を信頼するようになるという考え方(逆もしかり)だ。信頼を規定している本当の要因は能力の認知や誠実さではなく、当該問題における価値が自分と一致するかどうか、なのである。

これがもし正しいとすれば、

お互いの主要価値が異なっていれば、もうどのようにしても信頼は得られないのではないかと、懸念されるであろう。私は、その懸念は半分そのとおりだと思う。

これは2006年当時の著者の心配であるが、これは現実になり加速してしまっている。価値観が先に来てしまうと、それは必ず多様化するため、リスク管理者が多数の人からの信頼を獲得するのは大変難しいことになってしまう。


●リスク管理者受難の時代

本書が出版されてから15年後の今日。リスク管理者はその誰もが大きな脅威にさらされている。現在は、フェイクニュースから、画像合成でもなんでもありのSNSが力を持っている。リスク情報の質の低下は絶望的である。そして自分の価値観にこだわり、意見の異なる他者の話をまともに聞こうともせずその一切を否定する社会の分断化は、ますます深刻化している。たとえば、コロナ対策においても医療を重視する者と経済を重視する者との価値の総合が出来ずにいる。性質の違うリスクを一元に把握するモノサシは必要だが、説得力のあるものを提示するのはとてつもなく難しい。

われわれが住んでいるリスク社会は、どうしようもない難しい局面に入っているようである。しかし、絶望していてもしかたがない。人間には本書で書かれているようなさまざまな傾向があることを把握し、大事な場面では、周辺的ルート処理ではなく、多領域のリスクを同軸で評価するモノサシを利用しながら中心的ルート処理を行い、より普遍的な価値を考慮して意思決定をするということに留意していけば、そうしないよりもずっと良い結果を導くことができるだろう。

本書は読み方によっては絶望の書ともなるが、前向きに読めば希望と技術の書にもなりえる。リスク管理を担当する者にとっては、リスクコミュニケーションを実施する際に重要な人間洞察の書としても活用できるだろう。困ったときに何度も読むべき良書だと思う。



著者:秋山 進(あきやま・すすむ)


1963年、奈良県生まれ。京都大学経済学部卒。リクルート入社後、事業企画に携わる。独立後、経営・組織コンサルタントとして、各種業界のトップ企業など様々な団体のCEO補佐、事業構造改革、経営理念の策定などの業務に従事。現在は、経営リスク診断をベースに、組織設計、事業継続計画、コンプライアンス、サーベイ開発、エグゼクティブコーチング、人材育成などを提供するプリンシプル・コンサルティング・グループの代表を務める。国際大学GLOCOM客員研究員。麹町アカデミア学頭。

主な著書に『「一体感」が会社を潰す』(PHP研究所)、『それでも不祥事は起こる』『転職後、最初の1年にやるべきこと』(日本能率協会マネジメントセンター)、『社長!それは「法律」問題です』(日本経済新聞出版)などがある。

【関連リンク】
・プリンシプル・コンサルティング・グループ:https://www.principlegr.com/
・麹町アカデミア:http://k-academia.co.jp/

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