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越森幸夫(1930~2005 / 北海道南西沖地震時の奥尻町長)が阪神淡路震災直後に国会で述べた個人の支援物資と義援金にまつわる名言と教訓 [今週の防災格言528]

time 2018/02/05

越森幸夫(1930~2005 / 北海道南西沖地震時の奥尻町長)が阪神淡路震災直後に国会で述べた個人の支援物資と義援金にまつわる名言と教訓 [今週の防災格言528]


『 個人からの救援物資はできるだけ受け付けず、義援金としての援助をお願いすべき 』

越森幸夫(1930~2005 / 政治家 北海道南西沖地震時の奥尻町長)

阪神淡路震災の1年半前、1993(平成5)年7月12日深夜22時17分、北海道の日本海側の沖合でマグニチュード7.8の巨大地震が発生し、21メートルもの大津波が奥尻島を襲った。

ちょうどこの地震の10年前となる1983(昭和58)年5月、秋田沖を震源とする日本海中部地震(M7.7)で、奥尻町は高さ5メートルの津波の来襲により犠牲者2人をだし 、建物や漁船など約14億円の被害を被った経験があった。

こうした教訓により、日頃から島民の津波に対する防災意識は非常に高かったが、地震発生から津波襲来までの時間が数分と短かかったために大津波警報が間に合わず、奥尻町の全島民4,657人のうち約4%にあたる198人が犠牲となった。重軽傷者143人、住家の全半壊1,410棟、被災者は1,714世帯3,960人を数え、被害総額664億円となる。それまでの島の年間歳費は38億円で、実に17年分に相当する被害が一夜にして生じた。これが北海道南西沖地震である。

格言は、阪神淡路震災(1995年)直後の国会「地方分権に関する特別委員会」に参考人招致された際、自らの経験をもとに意見を述べたもの。

曰く―――。

《 当時、奥尻町の防災計画では、避難所は18ヶ所が定められていましたが、流失した施設もあって、8ヶ所、主に学校などに1,055人を収容しました。

着のみ着のままの状況の中で、水、食糧、寝具など緊急物資は対岸からの救援を受けなければならず、離島という交通事情に加え、港の使用不能という事態も生じ、この点で、もっとも苦労した思いがあります。

また、こうした避難所の生活では一週間、十日と経過するうちに被災者のニーズが変わってきますので、これに早急な対応措置を講ずる必要が生じます。

天候にもよりますが、救援物資は大型ヘリコプター等によるピストン輸送、緊急かつ大量輸送手段の確保が必要と思われるとともに、救援物資については、マスコミ等の大々的報道により災害直後から全国各地よりたくさんの救援物資が送られてきました。

3,000トンとも言われる膨大な量でしたが、仕分けで大変な労力を必要としましたし、そのためにわざわざ1億2千万円もかけて倉庫も建設しなければならないことにもなり、他にも、札幌まで持っていって北海道庁の皆さんに仕分けしてもらうために、これも9千万円ほど予算がかかりました。

だけれども、残念なことに、衣類については七割方は、ほとんど使うことができなかったのです。
ほとんど七割方を投げなきゃならないようなものだということで、もう保管する場所もないし、雨は降ってくるし、中には食料品と一緒に送ってくる “モノ” もあるのですから、もう匂いがついてどうしようもない。

3,000トン以上の膨大な物資は、あの島には、どうしても入るわけがないのです。
それが、もう雨ざらしになる、というような状態が続いてどうしようもないから、焼却してしまいなさい、と。

そうしたら、それをテレビ朝日が追っかけていって、全国の好意を踏みにじる行為を町長がしている、と、また叩かれるのですね。色々とそういう問題がありました。

個人からの救援物資はできるだけ受け付けず、義援金としての援助をお願いすべきだと考えております。また、企業からの救援物資の提供リストをもらい、必要なときに必要物資を提供していただけるシステムづくりが必要ではないかと感じてます。 》

越森幸夫(こしもり ゆきお)は、北海道奥尻町の町長を1975(昭和50)年から2001(平成13)年まで7期22年務めた人物。1993(平成5)年7月の北海道南西沖地震で壊滅した奥尻島を5年で「完全復興」させた政治手腕で知られ「奥尻の(田中)角栄」の異名をとった。

1930(昭和5)年12月10日、北海道奥尻町生まれ。北海道函館工業高等学校中退。地元で船の荷揚げ荷下ろしをする沖仲士をしながら、青年団活動で頭角を現し、1959(昭和34)年、28歳のとき奥尻町議会議員に初当選。以降4期を務め、1967(昭和42)年から1975(昭和50)年まで町議会副議長。1975(昭和50)年、奥尻町長に初当選し、2001(平成13)年まで7期、22年間務めた。

任期中に発生した北海道南西沖地震では、奥尻島青苗地区、初松前地区、稲穂地区の集落が壊滅するなど、被害は島全域に及ぶ大災害となった。地震直後は毎日4時間睡眠で陣頭指揮にあたりながら活躍され、同年10月1日、復興プロジェクトとして北海道庁内に「災害復興対策室」を設け、翌1994(平成6)年を復興元年と位置付けて島の人たちの「生活再建」と「防災まちづくり」、産業・経済を立て直す「地域振興」を3つを柱にした「奥尻町災害復興計画」を策定。仮設住宅への入居も高齢者・子供のある家庭を優先するなど住民の意見を一つにまとめ、防災面・安全面に配慮した島の整備をスピード感を持って強力に推し進めた。また、全国から190億円を超す義捐金が集まるなど復興特需も手伝い、震災から5年後の1998(平成10)年3月17日に「完全復興」を宣言した。

しかし、2001(平成13)年1月、越森町長は、奥尻町の在宅介護支援センターの建設にかかわる「入札妨害」で逮捕された。特定の業者に仕事を発注し続け、業者に予定価格を教えた収賄と競売入札妨害容疑だった。
2004(平成16)年1月に札幌高裁で懲役3年執行猶予4年、追徴金350万円の有罪判決を受け、刑が確定した。
晩年は奥尻の自宅で過ごし、腹痛による緊急入院で判明した肝臓癌のため北海道函館市の病院で2005(平成17)年2月28日に74歳で死去した。
震災特需に沸いた島だったが、「復興宣言」後も人口は減り続け、4,700人いた島民も3,000人を割り込むまで減少、若者は島を去って、過疎化が進んでいる。
越森幸夫(1930~2005 / 政治家 北海道南西沖地震時の奥尻町長)

■「越森幸夫」に関連する防災格言内の記事
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<防災格言編集主幹 平井 拝>

 

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