工学院大学総合研究所・都市減災研究所センター長・教授の久田嘉章氏を講師に迎えたSEISHOP×遊学堂セミナー「災害時、逃げる必要のない建物とまちづくり」が2018年2月6日、日本生命丸の内ガーデンタワーで行われました。4部に分けてその内容をお伝えします。
第2部は過去の震災からの教訓についてです。関東大震災から熊本地震までを振り返り、教訓を学びます。
関東大震災の死者の95%は火事によるもの
1923年9月1日に起きた関東大震災は今の震災対策の原点になっています。
関東大震災は死者約10万人のうち、東京市で約7万人が亡くなりましたが、震源の断層そのものは南関東で、そのため南関東地震と呼ばれています。千葉県や神奈川県の南部がものすごく揺れました。例えば、南房総の安房は震度7でたくさんの建物が倒壊しました。それから東日本大震災ほどではなかったけれども津波が起こり、静岡県伊東市は津波で壊滅しました。横浜市は揺れも強く火災も発生しました。
しかし死者は東京に集中しました。当時の東京市の死者7万1615人のうち、圧死者は3668人と約5%で、焼死者が5万6774人と78%、水死者も1万1233人と16%に上りました。水死は津波によるものではなく、火事から逃れるために川や池に飛び込んだものによります。約95%は火事で亡くなったのです。
注意していただきたいのは、地震直後は多くの人が生きていたことです。正午の地震発生から4~5時間たってから多数の人が亡くなられたのです。
結論から言うと逃げる場所を間違えたのです。火災の延焼はあっという間に広がるのではなくて、幼児が歩くスピードであるといわれていて、健常者であれば逃げられるはずだったのですが、郊外に逃げずに袋小路に逃げてしまった。しかも家財道具を全部荷車に積んで逃げてしまいました。下町の住民は9割は借家住まいの人で、江戸時代から大火が何度もあり、消防力も貧弱なので、何かあったらすぐ逃げるという習慣ができていました。災害に立ち向かうという発想がほとんどなかったといわれています。
こんな悲惨な震災が起こってしまって、これが震災対策の原点になっています。1924年には市街地建築物法を改正して、まちも道路を広くして、広場も作って、耐震・耐火建築、鉄筋コンクリートの建物を増やそうと様々な対策を行い、まちもだんだん変わってきました。
建築基準法を満たしていればいいわけではない
1948年には福井地震が起こり、死者3769人と壊滅的な被害を出しました。気象庁はこのときに「震度7」を追加しました。当時、耐震設計をしていた鉄筋コンクリートも大きな被害を受けたため、1950年に建築基準法が制定されました。
建築基準法は現在でも続いていますが、この法律は何を言っているのかというと「最低の基準を定める」と言っているのです。国は基本的に民間のものには口出しをしないけれども、地震で多数の死者が出て、公共の福祉に支障があるときに関して建築基準法が関わってくるわけです。
ですから、あくまで全国一律の最低基準であるということは頭に入れておくべきです。建築基準法を守っているから安心であるということは、まったくない。その後、この基準でできた建物も何度も何度も大震災を経験して、やはり被害が出てくるのです。
1968年には十勝沖地震が起きて、当時の基準を守った建物が倒壊、死者も出たため、1971年に建築基準法が改正されました。1978年の宮城県沖地震の際にも同様のことが起きたため、1981年に再び改正、「新耐震設計法」という今でも生きている法律ができました。
この1971年と1981年に建築基準法が変わったため、それ以前とそれ以後の建物では大きく耐震性が違っています。今お住いのご自身の建物がいつ建てられたか調べてください。
阪神・淡路大震災での災害に立ち向かった事例
1995年には阪神・淡路大震災が起きます。震度7の地震が起こり、6434人の死者を出しました。直接死5520人のうち約8割が建物倒壊による圧死。ものすごい揺れで、あっという間に亡くなられた。それから注意していただきたいのは、約1割の人が家具類等の転倒による圧死なのです。当時、関西では地震が来ないという俗説があり、何の対策もしていなかったのです。約1割が焼死。これは関東大震災と逆ですね。
震度7の地震が帯状に発生しました。揺れが強く、地盤が悪かった。それから耐震性の弱い建物や古い建物がここに集中していました。建物が倒れると火災が発生しやすく、水道も出ず、消防が来ても燃えるがままに任す状態になってしまいました。
もう一つ注意していただきたいのは、その後の関連死が914名いるということです。家をなくすと、しばらくは避難所と仮設住宅で生活することになりますが、1、2年後はそこも追い出されてしまい、社会的弱者になって、希望をなくして亡くなられた方が1000人近くいたということです。家をなくすことは、いろいろなところで影響が出てしまいます。
私も視察しましたが、比較的新しい建物でも1階に駐車場があるピロティと呼ばれる構造などは被害が出ています。しかし被害が出たのは圧倒的に古い建物です。
それから、多くの建物の室内がぐちゃぐちゃな状態でした。これでたくさんの方が亡くなりました。古い建物の耐震診断や補強と、室内対策がものすごく重要だといわれています。
もう一つ注目していただきたいのは、日常では避難訓練をやっていたのに、みんな避難したかというと、避難しなかったのです。なぜかというと、たくさんの人が救助を求める声を上げていたからです。警察も消防も来てくれない中で、誰が助けたかというと、圧倒的に自力、そして家族、隣近所、通行人の人たちです。「共助」がものすごく重要であることが分かりました。
逃げずに、ほとんどの住民は隣近所同士で助け合った。ただしこんなことが起こるなんて思ってもいなかったので、器具がなかったのです。ジャッキやバール、チェーンソーなどがあったら、助けられた命がもっとあったのではないかといわれています。
基本は、自分たちの家やまちは自分たちで守る。いざとなったら誰も助けてくれないということです。そのためには準備・訓練しておくことです。津波や延焼火災では逃げなくてはいけませんが、人口稠密な大都市では逃げる必要のない場合が多々あり、逃げないで災害に立ち向かう対策がものすごく重要だということは大きな教訓であると思います。
東日本大震災の「釜石の奇跡」から学ぶ
2011年3月11日に東日本大震災が起きました。死者は1万9533人、行方不明者2585人ですけれども、9割が津波で亡くなったといわれています。
内閣府の発表によると、約1万9000人の死者・行方不明者のうち、内陸での死者・行方不明者は125人でした。津波から逃げられたらほとんどの人が助かったのではないでしょうか。
「釜石の奇跡」を聞いたことはあるでしょうか。市内の小中学校14校の生徒約3000人が避難、生存率は99.8%に達したのです。なぜ奇跡は起こったのか。それは避難3原則を守ったからです。
1つ目は「想定にとらわれるな」。ハザードマップは参考にするけれども、これは過去の事例にすぎず、もっと大きい災害が起こるかもしれないので、自分で判断しなさいと言っていたわけです。
2つ目は、「最善を尽くせ」。逃げるのは大前提なのですけれども、ここまで来れば安全と思わないで、高いところに逃れるのだったら最善の方法を取ってくださいということです。諦めないで、一番いいと思えることをどんどんやっていく。
3つ目は「率先避難者たれ」。別の言い方をすればリーダーになれということです。子どもにとって、差し迫った危険を感じないのに逃げるというのはすごく勇気がいるのですけれども、大きな声で「おおい、津波が来るからみんな逃げろ」といって率先して逃げると、みんなついてくる。釜石の例では本当についてきました。そういう率先避難者になれということです。
津波のような逃げる地域では逃げるべきですけれども、次に紹介する都心のように逃げてはいけない地域では逃げない。ですので、「率先避難者たれ」をより一般化すると地域の特性を理解した「率先リーダーになれ」ということです。そういう意味では1~3は全国共通でどこでも使えるのではないかなと思います。
同じ釜石市では悲劇も
同じ釜石市でも「釜石の奇跡」とは反対に、「鵜住居(うのすまい)の悲劇」ということも起きました。釜石市全体で約1000人の死者のうち、半数以上となる583人の死者・行方不明者が発生しました。
逃げる場所を間違えた。「釜石市鵜住居地区防災センター」と呼ばれるところに200人以上が避難して、160人以上が亡くなった。名前がちょっと悪くて、ここに逃げたらいいという錯覚を起こしてしまったのですけれども、実はここは避難場所に指定されていないのです。裏山に高台があって、ここが本当の避難場所に指定されていたのです。
東北は冬に津波の避難訓練をやるみたいなのです。そうすると「寒い、いやだ」となかなか参加してくれない。初めは避難訓練を高台でやっていたみたいなのですが、みんなだんだん飽きてきて、では「防災センター」に集まって、いろいろな防災の講演会をやったり、ビデオを見たり、いろいろな話を聞いたりという活動をやるようになったらしいのです。「逃げる場所はここではなく高台だ」ということはいわれていたかもしれませんけれども、いつのまにか何かあるとここに集まるということが頭に刷り込まれてしまって、実際たくさんの人が来てしまって、そのまま亡くなられてしまったのです。
普段から逃げる場所を体で覚えておかないと、いざとなったらこういうことが起きてしまう。なかなか難しいのですけれども、こういうことが起きてしまうのです。
関東の被害と長周期地震動
東日本大震災では、関東平野に津波も来ましたし、大規模な液状化も起こりました。九段会館では天井が落ちて人が亡くなりましたし、何といっても(道路が大混雑して)大混乱したというのがみなさん記憶にあると思います。
そのため東京都では条例を作って「帰らない・逃げない対策の推進」を行うことになりました。都心では逃げないでください、とどまってくださいということを徹底しましょうということが、これがきっかけに始まったということです。
長周期地震動の話でいうと、大阪の超高層ビルがものすごく揺れました。大阪の湾岸の咲洲庁舎(さきしまちょうしゃ)という55階のビルの例でいうと、震度は3だったのです。地上はほとんど何も気が付かなかったのですけれども、屋上階では3メートル揺れた。天井が落っこちて、スプリンクラーヘッドが壊れて水が漏れて、エレベーターが止まったり閉じ込められたりして、上のほうはちょっとしたパニック状態になってしまった。
防災センターは1階にあったのです。エレベーターが止まって、地震が起こったということは分かるのですけれども、まさか上のほうでそんなに大変なことが起こっているとは全然分からなかった。電話をかけても、一体、何の話をしているのだという。助けに来てくれと言っても、エレベーターが止まっていますから、助けに来られないという状況になってしまったということです。高層ビルが長周期で揺れました。遠くても長周期地震動はやってきてしまうのです。場所によっては、ものすごく揺れて何度も何度も揺れてしまう。これは気を付けなくてはいけないということです。
帰宅困難者は「逃げない、避難しない」
東京消防庁による東日本大震災の高層建物の室内被害の調査や事例ですけれども、上の階ほどよく揺れているということです。物が落ちたりするだけではなくて、火事も出てしまう。そんな物が落ちたり倒れたりすると、電気ストーブが倒れてスイッチが入ってしまって被害が出てしまった。それから鑑賞魚の水槽が落ちてヒーターがむき出しになって、そこから火が出て火事になってしまう。ガステーブルが倒れて、これもスイッチが入ってしまって火が出た。白熱灯スタンドが倒れて火事が出た。ほとんど転倒防止対策と関連しているのです。
火事が出ると本当に悲惨です。これは一番やってはいけないことです。改めて転倒防止対策をすることが重要であるということに気付かされたということです。
それから、東京都帰宅困難者対策条例です。逃げない、避難しない対策。特にオフィスビル街では基本的にはまずむやみに移動しないでくださいということです。建物の安全性、室内の安全性、備蓄を確保して、できる限りとどまってください。
実はこの条例の裏の意味は、自宅対策も併せてやってくださいということです。大震災の際、何が心配で帰りたいのかというと、自宅の対策をあまりやっていないからです。自宅の対策をきちんととやって、仮に連絡が取れなくても、自宅の耐震性向上・家具類の落下転倒防止・最低一週間分の備蓄・普段から地域での共助・171や他の連絡先の確保、ここまで対策をしていれば仮に連絡取れなくてもいいではないかと。自宅と働く場所、あわせてやってください。まずは、そこにとどまる。これが大前提ですよということです。
同じ断層の上でも異なる建物の被害
最後は熊本地震。これは活断層の地震です。熊本はわれわれも調査しました。断層の上では最大で2メートルぐらいのずれ、変形が出ている。一番興味があったのは断層の真上です。例えば東京でも立川断層とかありますけれども、その真上に有効な対策はあるのだろうかというのが一番心配だったのです。
例えば、活断層のずれが地表に現れた高木地区というところで40棟ぐらいの建物を調査しまして、地震の揺れで倒れている建物は1軒だけ。非常に老朽化した建物ですけれども、あとは倒れている建物はなかったです。
これは築80年の伝統木造の家屋の例です。基礎が束石(つかいし)というすごく古い建て方で、耐震的にはあまり丈夫ではないといわれています。断層の真上で、倒れなかったですけれども断層のずれで建物が大きく変形し、大破しました。これは取り壊さざるを得ない。
こちらは築25年の在来木造建物の例です。ここの家の真下で断層がずれたのです。ここに40センチぐらいのずれが出ました。基礎が弱い、鉄筋が入っていないのです。断層がずれて基礎を壊してしまって、そのまま建物の上屋も変形させてしまった。これも倒れていないですから死者は出していないけれども、大破しました。取り壊しせざるを得ないほどの大変形を出してしまう。建築基準法上は倒壊していないのでいいけれども、やっぱり弱かった。一番まずかったのは基礎が弱かったということです。
最後に新しい木造住宅の例です。裏を見ると、断層がずれて、地面をずらしているのですけれども、ほとんど何の被害もないです。よく見ると基礎が、ちょっとクラックが入って壊れているくらい。何が違うかというと基礎に鉄筋が入っているのです。おそらく布基礎か、べた基礎。べた基礎というのは一番丈夫なのですけれども、しっかり鉄筋が入って基礎が一体化されて、地面がずれてもその変形が建物に入ってこなかったのです。壁も丈夫。屋根が軽かったというので、仮に地面がずるずると変形してもそれが建物に入ってこない。ここの方は、ずっと住み続けられる。逃げる必要がない家だったということです。もちろん、お薦めはこれです。
倒壊対策だけでは安心できない
気になるのが、益城町というのは一番被害が出た活断層の真上のまちなのですけれども、国交省が市街地の安全対策に関する最終報告というのを出しているのです。「活断層のズレに対する安全対策(提案)」と書いてあって、低層の建物に関しては、安全対策上「今後、新築される建物について特段の追加的配慮は必要ない」と書いてあるわけです。これは、何にもしなくていいと誤解しませんか。
繰り返しになりますけれども、建築基準法の最低基準の「安全」というのは何を指しているのかというと、「倒壊しない」という意味です。
無被害、軽微、一部損壊、半壊、全壊、倒壊。このうち倒壊が安全対策の対象(安全とは「倒壊しない」の意味)なのです。全壊・半壊というのは構造躯体の被害です。建築基準法が出来た終戦直後の1950年だったら分かるのですけれども、今のわれわれの市民感覚で全半壊が安全だといわれても、全然安全ではないですよね。(自宅は)取り壊しになりますから、避難所と仮設住宅に生活することになり、復旧費用と関連死がどんどん増えてしまうのです。
実際に熊本地震で直接亡くなった人は50人ですけれども、今関連死を含めると200人以上になります。それでいいのですか。どこが安全なのですかと。
国の報告は建築基準法ベース、法律なので、全国一律の最低基準ですから、これは全然われわれの感覚では安全ではないというのは気を付けていただきたいと思います。
実った「共助」の意識
それから、もう一つの教訓は、やっぱり共助、助けあいです。例えば西原村大切畑(おおぎりはた)地区(22世帯)では、古い建物の下敷きになる人がいっぱいいましたけれども、消防団が住人と協力して全員助けたということです。チェーンソーやジャッキでみんなを助けた。大体、住人はこの潰れた家のおばあさんがどこにいるというのが頭に入っているので、みんなであっという間に助けた。9人全員を助けたそうです。重要なことは、こういう機材を事前に用意して訓練をやっていたということです。使い方もちゃんと分かっていた。どうやって助けてあげるか、訓練をやっていたらしいです。活断層の上だから、たまたまやっていたらしいのですけれども、こういうことが今求められているということです。これはすごく重要なことなのです。
【講師Profile】
久田 嘉章(ひさだ よしあき)
工学院大学 総合研究所・都市減災研究センター長/建築学部まちづくり学科教授
1986年 早稲田大学院理工学研究科を修了、同大学助手。
1993年南カルフォルニア大学地球科学科助手
1995年より工学院大学建築学科の専任講師・助教授を経て現在に至る。
専門分野は、地震工学、地震防災。
著書に、『建築の振動―初歩から学ぶ建物の揺れ』(朝倉書店)、『逃げないですむ建物とまちをつくる─大都市を襲う地震等の自然災害とその対策─日本建築学会編』(技報堂出版)などがある。
久田研究室
http://kouzou.cc.kogakuin.ac.jp/newhp/
NHKそなえる防災 連載
http://www.nhk.or.jp/sonae/author/hisada.html
【久田教授講演コラム一覧】