『 地震警報を発し防災措置を講ずる上で、大衆からもたらされた数々の動物の異常行動や地下水・地電気の観測結果が大いに役立った。 』
劉 英勇(1915~1990 / 中国共産党の政治家・将軍 地震局局長 党副書記)
日本、米国、ソ連が地震予知計画を進めていた1970年代。中国(中華人民共和国)では、遼寧省海城市で起った大地震の予知に成功し、揺れの寸前で約100万人の住民を屋外に強制退避させて多数の人命を救ったというニュースが世界中を驚かせた。
1975年2月4日の海城地震(M7.4 死者1,328人 重傷4,292人)のことである。
当時、中国では文化大革命の波に乗って、地震予知のための観測項目として井戸水の異常や動物の異常行動(これを宏観(こうかん)異常現象と呼ぶ)などの情報が、10万人規模の大衆の無給奉仕によって毎日中央センターへと報告されていた。大衆の監視とともに専門家による地震観測も行われ(これを「専群結合」と呼ぶ。専は専門家、群は大衆)、失敗を恐れず頻繁に国家による地震警報が発令されていた。当然、予知の空振りの方が多かったが、その様な中で、海城地震では住民の強制退避完了後1時間ほどで大地震が発生するという劇的な予知の成功例を収めることとなる。
中国共産党政府は、1976年2月にパリで開催されたユネスコ総会で、この「地震予報の成果」を大いに喧伝した。当時、初代国家地震局局長の劉 英勇(りゅう いんよん)氏の手による英語翻訳公式レポート(「中華人民共和国地震工作概況簡介(1976年第2期)」)がユネスコ参加者へと配布された。(格言はこのレポートから)
しかし不幸にも、中国ではそれから半年ほど経た1976年7月28日、河北省唐山市直下でM7.8の大地震が発生する。この時、1ヶ月前から現地調査をしていた国家地震局調査隊は全員殉職し、結果的に予知はできずに失敗、壊滅状態となった唐山市は犠牲者242,419人を出す20世紀世界最大の震災となった。
唐山地震の予知失敗により国家地震局の信用は地に落ち、この後の中国の地震事業は大きく変貌することとなる。
写真:搜狗百科(www.sogou.com)