2011年3月11日(金)、東北関東地震がおきた時、首都圏では、たくさんの帰宅困難者が出現した。
彼等が家路へと向かう時、一方で、東京都渋谷区の青山学院では、かねてより広域避難場所として機能する区との約束どおり、学校を帰宅困難者に開放していた。
渋谷警察署からは「大量に発生した渋谷駅周辺の群集を受け容れて欲しい」との要請もあり、青山学院では渋谷駅まで事務職員が遠征し学院内に人々を呼び入れた。
呼び入れた人々は数を増す。
やがて講堂に収まらなくなり、青学会館も開放する。
発災当日は3月というのにまだまだ夜は寒かった。
学院では、人々に暖を取るための毛布を貸し出し、備蓄品のエマージェンシー・ブランケットを差し上げ、さらに生徒の分として用意されていた保存食のリッツを配布し、飲み水も配ったと言う。
翌日、学院に避難して朝を迎えた者は8,000人に上った。
学院関係者(事務職員および教職員)は、ホストとなった。
イエスを迎えたマルタのように働いた。
求めに応じて食事を配り、学院の外に出てまで「こちら、避難所です」と声を掛けて困っている人たち(帰宅困難者)を招き入れた。
朝まで、自分たちの寝食さえも忘れて・・・。
さて、この状況を、冷静になって考えてみよう。
今回の都内のケースでは、帰宅困難者となった者たちは、正確にいうと被災者ではない。
ただ、終電が終わって家に帰れなくなった人たちだと言える。
帰宅が困難であることに変わりないが、逃れなければいけない災難は彼らには存在しなかった。
つまり避難の必要性は低かったというわけだ。
やがて電車やバスが動き出し、あるいは、何とか歩いていれば必ず家に着くことができた。
いや、強いてあげれば、どうしても家に帰らなければいけないと言う思いこそが “難” だったのかもしれない。
いずれにせよ、あの時は、誰もが冷静ではいなかった。
冷静に考えること、が出来ない状態を、パニックと言う。
パニックによる思考停止は、参加者の全員を被災者へと変えた。
被災者には「被災者らしい行動」がある。
そして、言葉が一般的な行動をも支配してしまう。
この時になって「自分たちが帰宅困難者だ」と誰もが意識したことであろう。
そうして、帰宅困難者がすべき行動を取った。
避難所が作られた時に、帰宅困難者たちは、何となく避難所に誘導された。
誘導する側も避難者を援助する援助者となった。
そして、舞台は整った。
被災者と、自分も同じ境遇にある被災者が、あるときには援助者ともなる。
人が人にやさしくなる援助行動(利他行動)が始まる。
この行動にはドライブが掛かる。
(ある時は、それが強制力となり、人にやさしくしない者は、まるで悪人であるような行動規範が生まれることもある。)
この援助行動にドライブが掛かるのは何故か?
そのヒントが、創作絵本「きつねのおきゃくさま」にある。
ある日はらぺこきつねは、やせっぽちのあひるに出会う。
まるまるふとらせてから食べるため、きつねはあひるをもてなした。
あひるはきつねに感謝した。
あひるはきつねのことを、「おにいちゃん」とよび「かみさまのようだ」と吹聴する。
きつねは、それを聞いて「うっとり」とする。
そして「ぼうっ」となる。
やがてきつねは、本来の目的をわすれ、あひるを食べようとやってきたおうかみと戦う。
そしてあひるを守って死んでいく。
きつねのおきゃくさま (創作えほん) あまん きみこ(著) (サンリード) |
物語の中で、きつねの利他行動には拍車がかかっている。
“きつね”は、”あひる”にとって良い事をし、そして、”あひる”から「うっとり」するような、「ぼうっ」とするような<ほめ言葉>をひきだそうとする。
うっとり したり、ぼうっ となるのは “きつね” の主観であって、その言葉をきいて主観的に うっとり することができるのは、このテクストの中にいる”きつね”だけだ。
前後での主体的なかかわりがあって、この”あひる”のことばに ぼうっ となることができる。
そして、どうやらそれは快感らしい。
それも、空腹を満たすよりも大きな快感であるらしい。
生物の行動が 快・不快 を基準としているのなら、そして すべての動物と遺伝子の目的が生命を持続させることにあるのなら、空腹を我慢してまで得られる快楽とはなんだろうか?
(愛他行動を取るときの、人の脳のPET映像などの分析がどっかにあったような気がする・・・視床下部が反応するとか何とか)
“きつね”の最後は、完全に生物の、これら行動パターンに反する。
他を利するための自死、”きつね”にとって生命を賭してでも得たい何かが愛他行動にあったと考えられる。
(そう言えば、最近読んだアポトーシス(自死)の本に、細胞が他の細胞を利するために、癌化したら自死するプログラムがあるように書いてあったか・・・)
この ぼうっ とするほどの快楽が、利他行動をドライブさせていると考える。
そしてこの快楽は、主観的であるから、場合によっては客観性を必要としない。
つまり、助けましょう!―――があれば良くて、
助けられました!―――は必ずしも必要としない。
私が話を伺った学院の事務職員は、頼まれもしないのに青山学院の前を通過する帰宅困難者たちを呼び込み、積極的に食事と毛布を与え、自分のことも顧みずに帰宅困難者たちの世話をした。
すると、帰宅困難者たちの一部は、もっとよこせと言い、あるいは、黙ってものを奪い、ある者は「いくらになりますか?」とお金を用意し、そして感謝する者もいた。
でも、その反応が利他行動を取らせたのではない。
環境(ステージ)が整い、このステージでは、参加者が主観的な快楽をドライブとして愛他行動を取るのだ。
これを「災害後のユートピア」と呼ぶ。
当日のセイエンタプライズの社員達の様子を月曜日(2011年3月14日)に聞いた。
私は、と言うと、帰宅困難な様子を(そもそも最初から被災であるとは考えていなかったから)観察していた。
初めて、おそらく初めて地震で恐怖を感じたであろう社員達は、帰宅途上での雰囲気をあるいは恐怖で、あるいは困難を感じていた。
そして、同じ境遇にあった、同じ方向を向かう者同士の連帯感が生まれた。
普段、同じ方向に偶然歩いただけで声を掛けることなどない者同士が、声を掛け合ったり、お互いの境遇を話したり。
道を積極的に教え、自分の帰宅が遅れた者もあった。
ただ、自宅は無事であり、日常の雰囲気がながれる場所に戻ると(帰宅すると)夢は覚めた。
ぼうっ とした気持ちが、そこにはあったのだろうと想像する。
今も、私は会社で緊急支援物資の大きな案件がある時など、気持ちが被災地へ飛ぶ、何となく人を助けた気持ちになる。
そして、体温が上がり、ぼうっ とした気持ちの端っこにちょっと触れる気がすることがある。
これも災害後のユートピアの余波なのだろうか・・・と。
援助行動(利他行動)の教育絵本である「きつねのおきゃくさま」は、
災害ユートピアにある人々に、なぜそのような行動(援助行動)をとらせてしまうのか?
の一つの説明になるかも知れない。
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