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関東大震災99年 教訓は生かされたのか? ~火災被害に焦点を絞って~【前編】| 廣井悠(東京大学教授)講演録

time 2023/04/17

関東大震災99年 教訓は生かされたのか? ~火災被害に焦点を絞って~【前編】| 廣井悠(東京大学教授)講演録
扉絵:浅草公園の大火災「浅草公園十二階及花屋敷附近延焼の状況」(消防博物館 蔵)


1923年(大正12年)9月1日、首都圏を襲った未曽有の大災害“関東大震災”から99年目を迎えた今年(2022年9月)、都市防災を専門とされていらっしゃる東京大学大学院の廣井悠教授にご登壇いただき、「関東大震災99年」をテーマに、当時の被害の状況や、多くの教訓について解説をいただきました。講演録を「前編」「後編」二回にわたってお届けします。 [※ 後編 は こちら]
(講演日:2022年9月27日 19:00-20:30 / 主催:麹町アカデミア×SEISHOP / 場所:SEISHOP市ヶ谷ショールーム)


関東大震災99年 教訓は生かされたのか?
– 火災被害に焦点を絞って -【前編】

講演者:廣井悠(東京大学大学院 教授)

目 次


 

はじめに

関東大震災から99年を考えるということで、まずは初めに地震火災の内容を中心に関東大震災の被害を振り返ります。主に1920~30年代の研究者の方々が調査された内容をご紹介しながら、どういう災害像であったのかをご紹介します。

その後に、関東大震災の火災被害は繰り返されるのか?…ということ、現代の市街地では、同じような被害は繰り返されるのかを、考えてみたいと思います。

 

関東大震災の被害を振り返る

浅草公園十二階及花屋敷附近延焼の状況 (消防博物館 蔵)

まず、関東大震災の概要、(火災)ですね。1923年9月1日に発生した地震といわれています。震源は相模湾近辺と言われていますが、プレート型の大地震で、東京で火災被害が結構大きかったのです。東京の震度はそこまで大きくはなかったといわれています。

この絵の左奥にある建物は凌雲閣ですね。日本で初めて電動式のエレベーターがついた、バルトンさんというお雇い外国人が設計した有名な建物です。なので、これは浅草の市街地での惨状を描いた絵だと思うのですが、このように大八車で荷物を持つなどしながら避難した人も多く、それが数多くの方が亡くなる要因ともなりました。
当時は、基本的に借家なんですね。ですから、自分の命と家財さえ生き残っていれば、次の日に別な家を契約して同じ生活が送れる、いまとはそういう建物の所有形態の違いがありました。こういうこともあり、皆が家財道具を持って逃げたといわれています。

被害の全体像について、まずは過去の関東大震災報告集から見てみたいと思います。

当時の東京は、東京府・東京市といわれる行政区だったのですが、ここには被害世帯数と震災当時の世帯数などを載せています。これによると、実に東京市の73.4%の世帯に被害があったとされ、そのうち、火災の被害は84.9%です。

それから、横浜市は震源に近かったということもあって、95.9%と大きな被害でした。あまり知られていないかもしれませんが、横浜の火災被害も顕著で、その被害は全体の66%。東京市、横浜市で約6割の世帯が全焼、死者の9割が火災だったといわれています。

関東大震災(1923年)、阪神・淡路大震災(1995年)、東日本大震災(2011年)、を三大震災といいますが(福井地震を含め4大震災と言う場合もある)、関東大震災は火災、阪神・淡路大震災は建物倒壊、それから東日本大震災は津波の被害が卓越していたといわれます。関東大震災は建物倒壊や土砂災害など様々な要因で被害が発生していますが、やはり火災被害が非常に顕著であったというのが代表的な被害像、と言ってよいのではないでしょうか。


東京市区別火災被害

もうちょっと東京を詳しく見てみます。これは東京市の区別の火災被害です。

ここには、地域面積、人口、焼死とか地震発生後1日間の建物火災とかさまざまなデータが載っていますけれども、基本的には人口が多くて火災の出火件数が多いところで大きな火災被害が出たと言ってよいでしょう。

焼失割合を見ると、日本橋区は100%燃えています。他にもたくさん燃えたところとして浅草、本所、深川、下谷とか京橋等ありますけれども、非常に地域差が激しい。ほぼ100%燃えているところ(日本橋・浅草)と20%くらいのところ(芝・本郷)が混在しています。麻布区に至っては0.04%です。

東京市については、揺れがそこまで大きくなかったということもあったのでしょう、これは後ほどご説明しますけれども、結構な割合で初期消火しています。一方で、初期消火がうまくできなくて強風下で延焼してしまい燃えてしまったというところもあります。

それから、死者、亡くなった方のデータですが、ほとんどが焼死です。圧死もあります。溺死もそれなりに多いですね。溺死の理由を説明すると、関東大震災は台風が過ぎた後の昼に起きたと言われています。台風が過ぎた後なので、風が強かった。風が強いということは川とか海が荒れているわけです。関東大震災は様々なところで出火をし、調査により少し数字が違うのですが、一番、出火点数が多く報告されているデータ資料では全部で134件と報告されています。つまりいろいろなところで火災が起き、いろいろなところに飛び火をし、そして多くの人が逃げ惑って、火災と火災で挟まれたり、橋が燃えたりして逃げ切れずに川の中に飛び込んで、でも、川は荒れているので溺死をしたという方が多かったと言われています。ですから、溺死というのも、半分、焼死に近いのかもしれません。いずれにせよ、多くの方が焼けて亡くなったというのが東京市区別要因別死者数から見えてくるところです。

それと、本所の4万8,000人(焼死数)、これはまさに被服廠跡のあったところですけれども、本所とか浅草とか深川とか、逃げ切れなくて亡くなった方々がいるというのが特徴です。

 

出火の概要

火災の被害というのは、基本的には、出火と延焼と消防と避難、この4つの変数で大体決まると考えられます。本日は消防については時間の関係で省略しまして、出火と延焼と避難はどうだったのかというのを詳しくご説明したいと思います。


東京震災録と震災予防調査会の出火点調査結果

これが先ほど申し上げた関東大震災の出火点の調査ですね。東京震災録と震災予防調査会、2つありまして、それぞれ134だったり98だったり、データによって数字は異なりますが、多いほうを今日は使います。

発火場所が全部で134点、それから、延焼せしもの、つまり延焼してしまったものですね。これが77点。即時消し止めたるもの、これは初期消火したもので、これが57件。結構、初期消火をしているのです。当時、コミュニティもしっかりしていて、火災に対するリテラシーも高かったのかもしれません。東京市の揺れが小さいのも要因かもしれませんが、当時の初期消火率は42.5%と高いのです。

しかしながら、消防力を大きく超える同時多発火災が発生した場合、その対応は難しくなります。て、例えば浅草区のデータを見ると、23件火災が発生して4件は即時に初期消火できています。つまり19件は延焼してしまったわけです。この19件に対して当時の消防力は活動部隊7隊でした。7隊が19件の火災にすべて対応できるわけもありません。これは現代の近代的装備を伴った消防隊でも難しいでしょう。つまり関東大震災当時は、消防力を大きく超える同時多発火災が発生した地域も存在したということになります。これは現代の課題と同様でしょう。

それから、出火件数については関東大震災時の東京市は134件です。一方で、私が調査した東日本大震災の出火点はを宮城県だけでも145点発生しています。揺れの大きさこそ違うものの、現代都市はまだまだ多くの出火件数が計上されていることになります。

阪神・淡路大震災は、これもデータによって結構違うのですけれど、285件といわれています。首都直下地震だと、これももちろん被害想定の想定条件にもよりますけれども、何百件台の後半ぐらいですか、具体的には500件~800件くらいと言われていますかね。季節や時間によっても異なりますが。つまり関東大震災は、出火件数としてはわれわれが現在に想定している首都直下地震の被害想定よりも少ないことになります。この理由として、当時の東京市の人口は250万人ですが、現代の東京は居住者数がかなり増加していることがあげられます。揺れの大きさもあるかもしれません。当然、首都直下地震などでは、当時の134件をこえる多くの火災が発生する可能性もあります。


出火点分布

それから、これは出火点分布です。内閣府が関東大震災教訓集というのをまとめているのですが、それを参考にして、その上からパワポで私が丸を描きました。

ここでは赤い丸が延焼してしまった火災、白い丸が初期消火できた火災を示しています。

これが皇居で、これが不忍池ですかね。上野ですね。これが東京大学ですね。東大は残念ながら出火して延焼しています。

下絵の地図の赤いところが最終的に延焼した場所なので、これらの出火点分布のもとで、こう燃えたということが報告されていると解釈していただけるとよいと思います。

 

延焼の概要

次に延焼なのですけれども、皆さんご存じのように、当時の住宅あるいは建物というのはほとんどが木造です。まずは、どういう経緯で燃えたのかという地図をご覧いただきたいと思います。

関東大震災は確か9月1日の11時58分、お昼時に発生しているのですけれども、そこから1時間後に燃えている場所をグレーで示しています。なので、先ほどの赤いところから1時間後に燃えたところがこのグレーのところですね。

先ほど申し上げたように、当時の市街地は木造ですからよく燃えるわけです。16時に一気にこう燃えます。それから、16時と18時の間で、特にこの辺りで、例えばわれわれがここにいたとしますね。ここにいたとすると、火災と火災に挟まれて逃げられないわけですよね。それで、この時間におそらく多くの方が亡くなっていると考えられます。


9月1日 18時

このように、大体1日くらいで東京市の中でも非常に建物が建て詰まっている多くの地域が、もちろん東京大空襲ではもっと燃えているのですけれども、当時の市街地の中心部を含めた広範なエリアが燃えているというのが関東大震災の延焼の燃え方になります。

延焼速度としても、われわれが考えるよりもかなり速く燃えています。当時の風速は非常に強く、1時間当たりの延焼速度が最大800mといわれています。今の市街地だと運が悪くても1時間当たり300mくらいですかね。まあちょっと断定的には言えないのですけれども、少なくとも糸魚川の火災(2016年12月末)の時は風横側60m/h、飛び火込みで風下側はだいたい100m/hくらいと推察されますので。糸魚川の火災の8倍ぐらいの延焼速度、燃え方、燃え広がりの速さであった。これはもちろん、関東大震災の時の一番大きい数値を申し上げていますけれど、非常に速い速度で燃えたということです。


東京市内の焼失区域残存建築物・橋梁被害

それから、当時は緻密な調査がされていて、これが、東京市内の消失区域の残存建築物と橋の被害です。

見てもお分かりのように木造建物はほとんど残っていないわけです。もちろん土造や石造や鉄筋コンクリートも当時はありましたが、基本的には焼失区域で残存している建物はあまりない。

橋も、木の橋、それから鉄の橋とさまざまなものがありましたけれども、多くの橋が燃えてしまって、橋が燃えるということは、当然、避難行動の阻害要因になるわけです。つまり、橋が燃えたことで人的被害が増したということが言えます。

これは、構造別建築面積の年推移、ちょっと分かりにくいグラフなのですけれども、横軸が西暦、縦軸が、東京市の建築面積です。当時の建物は、ほぼ木造ですが、関東大震災の影響で半分以上木造建物が減って、それでまた復興しています。

右は中央気象台の9月1日~2日の風速です。このときはころころ風向が変わりまして、風速も変わっているのですけれども、基本的には12m/sとか15m/sぐらい、速いのは20m/sとあります。強風です。ほとんどが木造であり、密集していて、避難者の家財が延焼を助長させて、さらに橋の上に家財を置かれると燃えてしまう。強風プラスほとんどが木造、避難がうまくいかなかったというこの3点が被害を拡大させた要因なのではないかと思っています。今の若い人はともかく、少し前までは「避難の際は何も持たないで逃げましょう」と言われました。これはその時の教訓です。

それから、東日本大震災の時と同じような津波火災も起きていまして、東日本大震災の気仙沼と似ているのですけれども、重油タンクが破損し、流出した油に引火。これが海面を覆い、火の海と化しました。タンク火災は16日燃え続けたと言われています。

これは横須賀市さんの写真から取っていますけれども。重油が流出した火災、重油火災ですね。いわゆる津波火災で軍艦が逃げている写真も残っているということで、様々な災害現象が関東大震災では発生しているということです。

 

避難の概要

次に避難について説明したいと思うのですけれども、これが死者の分布になります。
ここで大きな丸は死者100名以上ですね。小さな丸は死者100名未満でプロットしたものですが、散発的に100名未満等もあるのですけれども、この辺りですね。やはり。被服廠の近く。それから、神田区のこの辺りですね。今、われわれがいるところの近くですか。今、われわれがいるところはここら辺(麴町)ですね。


死者の分布

それから、吉原公園の近くですね。この辺りで多くの方が亡くなっているというのがこのデータから見て取れると思います。

この亡くなった方々のデータを細かく見ると地震直後に逃げ遅れて亡くなっている方は、吉原公園の近くとか神田区の西側で、先ほど申し上げたように、大体、16時とか17時ぐらい。深川区とか本所区の火災が合流して河川や運河の際とか避難場所で逃げ場をなくして亡くなっているということが発生しています。

その後は神田駅ですね。ここでは東西の火災に挟まれて亡くなっているのですけれども、避難した先で、また少人数ごとに散発的に亡くなるというのが関東大震災の火災被害です。

そして、火災旋風です。
火災旋風は、厳密には私は専門をややはずれるのですが、これは東京だけではなくて横浜などでも発生しています。現象としては、戦災でも起きていますし、東日本大震災でも起きたかどうかはわからないのですが、発生したという証言は残っています。
火災旋風は恐ろしい現象なので、メディアの方はよく取り上げるのですけれども、関東大震災で大量死が発生した要因は、火災旋風が問題というよりむしろ避難場所ではないかと考えています。被覆廠跡というオープンスペース、みんなが避難してきた場所で火災旋風が起きたという、人とハザードの重なり合わせが良くなかったというのが正しい見方かなと思います。なので、火災旋風という現象が怖いという話よりもむしろみんなが避難する場所の安全性をきちんと考えましょうねというところが、この被服廠跡から得られる教訓なのではないかと思います。


死者発生場所(100人以上)

死者の発生場所をリストアップしたものがこちらで、先ほど申し上げたように、本所の被服廠跡、それから小学校の敷地内や錦糸町の駅とか神田駅とか吉原公園とかさまざまなところで多くの方が亡くなっています。

まとめますと、焼死の原因は、現代もあるかもしれませんが、建物に閉じ込められたり、火に囲まれて逃げられなくなったという亡くなり方と、あとは避難途中に橋の消失や落橋で逃げられなくなったというパターンですね。それから、安全な避難場所だと思っていたのにそこに火災が来てしまって亡くなってしまったという3つの亡くなり方が主にあるようです。

さて、ここからは将来の話をします。
これはいつも授業で学生に聞いているのですけれども、火災被害など、他の被害も含めて関東大震災では10万人ぐらいの方が亡くなりましたが、「 今後、首都直下地震や南海トラフ巨大地震で関東大震災や阪神・淡路大震災ぐらいの火災被害が発生すると思うか 」というのを皆さんにお聞きしたいのです。

 

ここで質問(投票を実施)


【質問】今後、首都直下地震や南海トラフ巨大地震などで関東大震災や阪神・淡路大震災くらいの火災被害が発生すると思いますか?

「1番(関東大震災より、被害が大きい)」を選んだ視聴者がもっとも多く、次は「4番(阪神・淡路大震災と同じくらい)」、「3番(関東大震災と阪神・淡路大震災の中間くらい)」、「2番(関東大震災と同じくらい)」、「5番(阪神・淡路大震災より、被害は小さい)」の順番ですけれども、私は「3番」じゃないかなと思うんですね。
ですが、私よりも20歳ぐらい上の65歳とか70歳ぐらいの都市防災のレジェンドクラスの先生たちは「1番」と言う人もいます。つまり、研究者でも年齢によって、見てきた災害によって、意見が分かれています。結局は起きてみないと分からないのですけれど、被害想定では「3番」なんです。ただ、被害想定は条件を変えれば全然変わりますからね。

答えは起きてみないと分からないんですが、今日は、皆さんに投票していただいて、その感覚がどれぐらい正しいのかということを考えて頂きたい。そこで、99年前の関東大震災と今の市街地は、火災被害という点から見てどれぐらい変わっているのかということを残りの時間で考えてみたいと思います。


後編に続く

 


講演者:廣井悠(ひろい・ゆう)

廣井悠(ひろい・ゆう)

東京大学・教授

1978年10月東京都文京区生まれ。慶應義塾大学理工学部卒業、慶應義塾大学大学院理工学研究科修士課程修了を経て、東京大学大学院工学系研究科都市工学専攻・博士課程を2年次に中退し、同・特任助教に着任。
2012年4月名古屋大学減災連携研究センター准教授、2016年4月より東京大学大学院工学系研究科都市工学専攻准教授を経て、2021年8月から現職。
博士(工学)、専門社会調査士。専門は都市防災、都市計画。
平成28年度東京大学卓越研究員、2016-2020年JSTさきがけ研究員(兼任)、東海国立大学機構(名古屋大学)客員教授、静岡大学客員教授、一般社団法人防災教育普及協会・理事、令和防災研究所・理事も兼任。

・主な著書
「知られざる地下街」(河出書房新社 2018)
「これだけはやっておきたい!帰宅困難者対策Q&A」(清文社 2013)

・廣井研究室 Webサイト:http://www.u-hiroi.net/index.html

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