1923年9月1日の関東大震災では、都心部で大火災により14万人の人命と、大正当時の金額で55億円余の財産が失われた。大正12年当時の大卒の初任給が50円というから、(一概に比較できないが)単純計算で、現在のレートでは、およそ22兆円の被害となる。
未曾有の大災害が発生する18年前、明治38年(1905年)、この関東地震を予言した1人の男がいた。今では「地震予知研究の先駆者」として知られる東京帝国大学地震学教室の今村明恒(1870年〜1948年没)助教授である。
今村は「今後50年以内に関東地方で大地震が発生するだろう。その場合最も恐ろしいのは火災で、今のままでは(地震により水道施設が破壊され消火作業ができない)20万人の市民が犠牲になる大災害になる」と、近い将来に帝都で起こるであろう大地震を警告した。
ところが、震災対策を訴え続ける今村を、世論は「ホラ吹きの今村」と呼んだ。
ホラ吹きとまで貶められたのには理由があった。
明治38年当時、東京帝国大学地震学教室の教授は今村より2歳年長の大森房吉(1868年〜1923年没)だった。2人ともに「東京に地震が来れば大火災に見舞われる」との考えで一致していたが、「大地震が明日起こっても不思議でない」とする今村の警告に対し、大森は、世間を必要以上に騒がせることを恐れて、関東大地震説を浮説と退け、誌面に掲載した。同じ東大地震学教室の教授と助教授が対立したことで、世の注目を浴び、有名となった大森 vs 今村論争である。
18年後の9月1日、旧・東京市と横浜市では、200ヶ所近くから一斉に火の手があがり、瞬く間に、都市部は大火災に見舞われた。東京帝国大学の地震学教室も火の粉をあびて燃え上がった。
このとき、大森は、第2回汎太平洋学術会議に出席するためオーストラリアにいた。シドニーにあるリバービュー天文台長から、現地の地震観測所を案内されているその時に、大森の目の前にあったシドニーの地震計の針が大きく振れだした。大森はその地震計の記録から、震源が東京付近だと気付いて愕然となったと伝えられている。そして、その時、日本では、今村が独り口元を緩めたという。
予知を的中させた今村は、一躍、時の人となった。
そして、論説を競った大森教授は、急ぎ帰国する最中に病に倒れ入院し、関東大地震から僅か一ヶ月後の11月に亡くなった。今村氏は生涯に渡り大森氏を敬愛していたという。
今から100年前の実話、なかなかのドラマである。
■「大森 今村 論争」「関東大震災」に関連する主な記事
今週の防災格言<26> 地震学者・今村明恒氏(2008.05.12 編集長コラム)
首都直下 ホントは浅かった 佐藤比呂志教授と関東大震災(2005.10.26 編集長コラム)
大正12年 関東大震災 概要(防災情報のページ)
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