地下鉄サリン事件から20年 [編集長コラム]
地下鉄サリン事件20年・・・。
20年前は、テロリストという言葉を耳にする機会は少なく、あの様な輩たちを一様に「過激派」と呼んでいた様に思う。
サリンなる化学兵器も、中東戦争で使われたという遠い世界のできごとくらいの認識で全く実感がわかなかった。
鉄砲や爆弾テロしか想定していなかった日本の警察は、得体の知れない団体を取り締まれるように、1996年に警察法を改正し今に至る。
私にとって、テロという身近な危険を考える契機となる、大きな事件でもあった。
最初の犠牲者となった横浜市の弁護士一家が失踪した時、私は大学生だった。(記憶では高校時代と勘違いしていた。記憶はあてにならないなあ。)
坂本さんは高校の級友の従兄だった。当時、洋光台だったか藤沢駅などで尋ね人のビラを配った記憶がある。「失踪じゃなくて、きっと拉致じゃないか」「犯人はきっとあの宗教団体じゃないか」そんな噂話を、ただただ頷きながら私は聞いていた。その時は、まさか既に殺害されていたとは想像すらしていなかった。
大学構内では、教祖の麻原が宙に浮いている写真が表紙となった勧誘チラシが配られていた。
教団本部があった亀戸に近く、学校内に教団支部があって、熱心な勧誘が行われていたと思う。だから私は彼等を無視して過ごした。
それから1年くらいか、教団をテレビやメディアでやたら目にする機会が増えた。秋葉原にPCを買いに行くと、嫌でもマハポーシャの元気な信者たちを目にした。教祖は、まるでタレントのように時の人となっていた。ただ、多くの人もメディアも、今も変わらぬテレビタレントと同様の「一般人とは毛色の違う面白人物級」の扱いだったと思う。
それから5、6年。社会人になって、横浜(綱島)と東京(永田町)を行き来していた。ジョークでたまに知り合いとオウムの話がでる程度、ほとんど彼らを忘れていた頃に、無差別テロ「地下鉄サリン事件」が発生した。
私は、丸ノ内線、日比谷線、千代田線を使うことはなかったので助かった。後で知ったが、知り合いの2人が、サリンを吸って搬送されていた。
ちょうど2か月前の神戸の地震で家族が被害にあった。地震直後の混乱に比べ、だいぶ落ち着きを取り戻していた時期とはいえ、まだ被災地のことが気がかりだった。だから、地下鉄サリン事件の報道に接しても、私は、どこか「ぼやっ~っ」と過ごしていた様な気もする。
ただ、この年に起った震災とテロというできごとは、後になって「ある日、ある朝、突然に人の生死が分かれてしまう」「そんな事起きるわけない、というよな出来事が、突然、身近なところで起きるかもしれない」「あの日、もし違う電車に乗っていたら自分が被害にあっていたかもしれない」ということに気付かされた事件となった。
想像して欲しい。顔も名前も知らない赤の他人が、明らかな殺意をもって自分に襲い掛かってくる無差別テロを。
今朝の新聞に「語り継ぐ教訓」という特集記事で、何名かの有識者のコメントが載っていた。
その中に《 多くの人が危険な団体を見分ける知識を持ち、社会全体で共有できる環境を・・・ 》とあったが、こんなの困難に決まっている。テロリストは “意外に身近にいる” と私は思うからである。だから、個人の判断云々でこれに対抗する、なんていう見解は、ある意味で正論であると思いつつ、現実の策としては難しいのではなかろうか。
一方で、元警視総監の伊藤哲郎氏の《 テロを未然に防ぐためには情報を集めて分析するインテリジェンス(情報)活動が必要不可欠だ 》と《 リスクがあるということを国民に丁寧説明し、兆候があれば通報してもらうなど、社会が一体となってテロに立ち向かう必要がある 》は秀逸だ。私もその通りだと思う。
1996年の警察法の改正のように、国が危機を想定して活動(情報収集)し、それらを国民と社会が一丸となって支える、という仕組みがテロリスト対策にはもっとも必要なのだろう。
テロ活動に理解を示す発言も少数であるみたいだが、テロはテロと割り切るべきだと思う。無差別殺人犯への理解は必要ない。自分だけはテロで死なない、なんて「対岸の火事」でものを捉えてしまってはダメなんだと思う。
《FYI》
■Facebook > 陸上自衛隊 Japan Ground Self-Defense Force (2015.03.20)
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