「 災害後 」(これは日記です)
先週、メルマガの読者のとあるお寺のご住職から「震災が起こってしまった今は “防災” ではなく “災害後” なのではないか」との問答をいただいた。
今は震災後に初めて迎えた九月お彼岸の時期である。
きっと、罹災した親族を檀家に持つ寺院として、今は慌しくもあり、忙しくもある。
そして、災害後の檀家への配慮や、彼等の心のケアにたいへん悩んでおられるのだろうと思われた。
でも、当初、この問いを頂戴したときには、
特にご住職から彼岸入りについて話がなかったので、
私は、純粋に、今は「災害の対策=防災」の時期ではないとお考えなのだろうと思い少々ショックを受けた。
災害は忘れた頃に来る、との寺田寅彦の警句にあるように、
自然の災禍というものは、5年経ち、10年経つと、まるで過去の災害がなかったかのように人々の心から忘れられるものでもある。これは災害史をひも解けば誰でも気づくことだ。
だからといって、人は危険というものに全く無頓着ということではなく、
ただ、多くの人は、自分だけは、我が身だけは災難には遇わないだろうと災害のリスクを過小評価しているだけなのだ。
そう、人は忘れっぽいのだ。
そういうふうに心というものができているのだから仕方ない。
いつもの日常がある時から非日常となってしまうものが災禍である。
社会基盤、情報、お金(消費)、物資、などと、まるで水や空気のごとく当たり前のように日常的にそれらを謳歌している生活が今あるからこそ、目前の楽しさに目を奪われて、それが無くなったときの苦というものを人は想像しにくい。また、実際に目の当たりにすると思考停止に陥ってしまいがちとなる。そしていつしか、一時に、はっと気づいて、考えたりした何かを忘れてしまう。
もしもの時に対して、自分は、そして家族は、どうすれば良いのか、と自問自答し、
日頃からの備えをしている人は、実は少数だろう。
備えをするためには、まず自分で考えなければならないし、そして考えを行動に移さなければならない。
だから面倒くさいし、自分だけは大丈夫だろうと思って、結局は何もやらない人がいるのだ。
いつ襲ってくるかわからないものに予算を使いたくないという政府の方便も同じかもしれない。
勉強が好きでたまらない人は稀だろう。
同じように、災害への備えをするために智恵や知識を学ぼうとしても、それは苦痛にほかならない。
好きでもないものを、仕方なくやっていたら、それは面倒なことであり、苦痛でもある。
だから、本当に「災害に備える」というものを身につけている人は、
何も、防災大好き、毎日防災について考えています、というよな堅物な人生を過ごしているでなく、
とても自然に、防災というものが、自分のライフスタイルの中に溶け込み生活しているような人なのだと思う。
私の家では、そして親戚も、あたり前のように飲み水をいったん他の容器に貯めたりして、その水を飲用や食用に使っている。
水道から直接は使わない。昔からそうしていただけだ。
だから毎日、何リットルも水が確保されているのだけれども、わが家にとっては、こうすることが日常生活としてあたり前の行動だから苦でも何でもないし、また、「これを防災のためにやっている」なんて考えも家内には微塵もないだろう。結果としてもしもの時に最低限の水が自宅に確保されるのだから防災にも役立つだろう、というロジックである。
昔の田舎では普通だった、寝床の枕もとに水が一杯おいてある、なんてのも結果的に防災にも役立つものだ。
災害がなくならないように、そして繰り返し襲ってくるように、自らを助けるという自助を基本とする防災の理念にも終わりはない。
終わりがないからこそ面倒になりがちであり、面倒だからこそ思考停止したくもなる。
今は心の中の震災後なのであって、災害対策というものの終わりでは決してない。
そうでなければ、過去の災害から得られた教訓とはいったい何であるのか、と逆に問いたい。
教訓はあくまでも単なる教訓であり、そこから考え得た何らかの気付きを、自分の中でしっかりと定着させ生かしてこそのものと思う。
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