私たちが覚えている限り、東日本大震災(2011年3月11日)の際にも物資は不足した。
震災の年の3月25日頃に都市防災家の東京大学・廣井悠准教授が調査したレポートによると、震災後に普段と違う買い物行動、つまり買い占めなどの大量購入を行った人の数は、アンケートに答えた2,000人中でわずか1割弱ほどであった。
――――――――しかし、あのときに、コンビニエンスストアや食料品店の棚からはペットボトルの水だけでなく食料品も消えたのだった。
(参考:東日本大震災に関する調査(帰宅困難/心理と行動編)調査報告書 平成23年6月 株式会社サーベイリサーチセンター 地震発生後の買物行動 P74)
今から25年前の阪神の地震(1995年1月17日)の時に、神戸市内のコンビニエンスストアやスーパーから食料品が消えた。地震の翌日には「ネギ」1本すら買えなくなっていた。
毎日の生活の中で、私たちはコンビニエンスストアの棚に「モノ」がないのを見かけることはまずないだろう。
ただそれは、私たちの見えないところで誰かが物資を作り、運び、仕入れをし、棚出しをしているからであり、物流システムが回っているから実現している光景にすぎない。
物資不足は、昨年(2019年9月~10月)の台風15号や第19号の際にも、また、都心に急に大雪が降った際(2018年1月28日)にも生じている。
経済は絶えず動くことによって成立している。それも、各パーツが互いに影響をしあい、複雑に絡み合いながら私たちの日常生活を支えている。
この当たり前の光景は、自然災害などの障害によって時々狂わされる。
狂ったシステムは復旧するまでに時間がかかり、その間に脆弱な部分から崩壊が始まる。
私たちは便利なシステムの中にいて、それが当たり前だと思いすぎていないだろうか。
先日の日経新聞に「いつでも買えるのワナ」という論説があった。新型コロナウイルス騒ぎでマスクが不足する現状、デマでトイレットペーパーが店頭からなくなったりした現象を説明している。
この記事によると、
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1) 無駄嫌う単身世帯の増加、
2) コンビニが冷蔵庫がわり、
3) 精緻な需給管理
の三つが常態化していることにより、突発的な異常値に需給のバランスをとることができずに、現在の慢性的な不足状態が生じているという。
記事は、「普段から危機に備えた「消費」を考えておく必要がある」と締めくくる。
(「いつでも買える」のワナ 家に蓄えなし…品薄デマに慌てて殺到 2020/3/12付 日本経済新聞 朝刊)
これほどに経済が発展し、人と物と金が世界中を流通する時代はなかった。しかも通信技術の普及と発展により流通する速度は更に増している。
そして、計算し尽くされた流通システムは、大抵のイベントを想定内としており、ほとんど24時間365日止まることがないと我々に信じさせている。
しかし、どんなに精緻なシステムも、完璧で無いことをこの数年に起きている気象災害や地震災害で私たちは知っている。
かつて(17世紀~19世紀)私たちは食料の確保さえままならず、従って隣近所で協力し合い、各自の工夫により保存食の準備を怠らなかった。
今では流通も食糧保存技術も発展し、コンビニエンスストアが食糧庫になった。
便利は人の考える力だけでなく危機意識さえも奪い去る、安全は当たり前のものとなり、備える事は不合理となる。
今回の物資不足で、もしも各家庭にマスクの備蓄が1か月分あったらどうなっていただろうか?
マスクが必要になった時に、各自がもう1箱の購入をしただけであれば、これほどの不足が続いたであろうか?
備える方法としてローリングストックという方法がある。
ローリングストックは、使いながら不足分を足していく、という方法と説明される。
そのため、必要なときに買う発想と大きく違わない。
これは一定の量を減らさない方法としては良いと思う。
だがしかし、それは幾度となく私たちが見てきた通り、万が一の危機対策にはなっていない。
システムが想定する範囲内の危機への対策なのだ。
今回のように、どのくらい継続するか分からない(終わり方が分からない)突発的な災害に対して備えるためには、蓄え(たくわえ)が必要なのだ。
蓄えは余剰であり、余裕を生む。
私たちが考え直さなければいけないのは、かつて先人たちがしてきたように、備蓄を本気で考えることだ。
備蓄は不合理かもしれないが、実は合理なのである。
2018年1月28日、東京都心で27センチの積雪を記録
写真は翌日のスーパーの棚(東京都千代田区)