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デマ(チェーンメール)にご用心の意味 [緊急コラム]

time 2011/03/16

デマ(チェーンメール)にご用心の意味 [緊急コラム]
デマ(チェーンメール)にご用心の意味  [編集長コラム]

この文章は、ただ今(東日本大震災発生直後の2011年3月16日朝)推敲せずにざっと書いているので多少の間違いや読みにくいところがあります。

何故書いているかというと、マスコミでも注意喚起しているように、チェーンメールが多いからです。

直接のきっかけは、昨日(2011/3/15)に防災の著書も書かれているある著名な大学教授から「被災者たちからです。(情報を広く皆に伝えて下さい)」といった趣旨の、緊急性や具体性の乏しい曖昧な内容のメールを受け取ったからです。当の先生本人は、恐らく自分が善意で被災者の情報を配信したのだと思っていらっしゃって、この不確かな情報がチェーンメールとなり彷徨い続ける可能性があるとは考えてもいないのでしょう。
これが危険なのは、名の知られた防災アドバイザーや影響力のある著名人らが、自分の感情で無秩序に時間や所在の不明瞭な情報を発信してしまうという事態です。これは良くないことです。

また、昨日(2011/3/15)から福島原発の放射能漏事故に関連し「市販のうがい薬を飲めば被曝に役立つ」といったチェーンメールへ政府も注意喚起を行っており、テレビも「チェーンメールなど信用のおけない情報には気をつけて」と報道しました。しかしチェーンメールは無くならないでしょう。なぜなら 信用のおけない情報・デマ とは何かの説明が一切なされていないからです。
もし、あなたが、親友からメールを受信したらどう思うでしょうか。それがデマ情報だとは考えないでしょう。しかも、私信に近い文章だったらチェーンメールと気付かないかもしれません。
だから、できるだけ分かりやすく、そういう情報を出さないよう、理窟っぽく説明します。推敲せずに今書いているので長文になってしまいます。ごめんなさい。

流言・デマとは  [編集長コラム]

災害時には、デマや流言というものが流れやすい――――デマとは、根拠や確証のない噂話(出典:「辞林」三省堂篇)のことで、扇動政治を意味するドイツ語のデマゴギー(demagogie)が語源と言われ、昭和初期から使われるようになったそうです。

つまり、誰かの言葉によって人々が煽られ踊らされることがデマであって、正確には、嘘をつくこと自体はデマとなりません。

一方で災害時や非常時に流れるデマには、あまり明確な定義付けが為されていません。

一般的には、災害時のデマというと「また津波が来るぞ!逃げろ!(2004年12月のスマトラ沖地震津波で震災後数日間に各地で起った実話)」といった噂が広まった結果、住民達が一斉に同じ方向に逃げ惑い、それにたまたま遭遇した第三者が更に踊らされ、いつしか集団ヒステリーとなり、群集がパニック行動を引き起こし、遂には社会不安が増大してしまう情報の一つと考えられています。

よって、災害時のデマとは、確証のない噂話がまことしやかに信じられてしまった結果、誰かがその情報に踊らされる、と言った意味と解釈した方が良いでしょう。

また、パニックという用語も突き詰めれば、人が慌てている精神状態を指し示すといった、何ともあいまいな言葉です。

災害時のパニックには、2つの意味があります。

群集パニックと呼ばれる、ただ単に人々が混乱する状態のみの場合と、突然に不安や恐怖や恐慌を覚えて自分で自分が制御できない状態に陥ってしまうという、恐怖映画などで美人女優が「キャーキャー」と言っているような状態…つまり、精神的パニックそのものを指す場合の2つです。

災害時のデマの状況は、「 根拠や確証のない噂話が発端となって、人々が冷静な判断ができないほど混乱してしまう様子 」ということになるのでしょうか。

映画やテレビドラマの中では、ちょっとした事故や災害という何らかのキッカケが発生した後、小さなデマから事故や暴動が発生し、主人公と親しい者(主人公の恋人といった脚本が割と多いかな?)が群集に巻き込まれ死んでしまう、というのは、ドラマのクライマックスの演出には多様されています。

実際、海外の暴動(サッカーのフーリガンなど)やパニック映画(ヒッチコックの「鳥」)などの印象から、漠然とそのような時に集団パニックになるかもしれないのかな、と信じられています。

ある意味「それも真実」であり、一方で、「災害時に人はパニックにはなり難い」とも言われてもいます。

このような災害時に、人に迷惑をかけるデマは、情報を出した本人も踊らされた人たちも、デマによって迷惑をかけられた人たちでさえ「デマとは気付かない」といったケースも珍しくありません。

定義のはっきりしないデマのメカニズムは、私が思うに、非常に多様で複雑です。

そんなデマの話を、実話や海外の論文などを交えて、幾つかご紹介していこうかと思います。

人はマス(広域流布)の情報に踊らされやすい  [編集長コラム]

デマの話でよく引き合いに出される、もっとも有名なパニック行動の例として、オーソン・ウェルズのラジオドラマ「火星人の来襲」があります。

1938年10月30日、全米CBSラジオで、ハロウィーンの日の特別企画として、作家H.G.ウェルズのSF小説「宇宙戦争」を題材にしたラジオドラマの放送が決定しました。
司会のオーソン・ウェルズは、番組を放送している最中に「火星人が来襲し都市を攻撃しています。死者は何人・・・詳しい情報が入り次第お知らせします」といった緊迫感を演出しようと、臨時ニュース調に台本をアレンジしました。

余りの迫真の演技に、途中で番組を聞いた人たちがパニックに陥り、全米では銃を手にもった人が溢れ、軍基地に駆け込む人が後をたたない、など社会不安が起った・・・とされるのが、良く知られている火星人の来襲事件です。

しかし事実は異なります。

でも「パニック」は発生しにくい  [編集長コラム]

実際には、番組の途中には幾度も「これはドラマであり事実ではありません」と説明が流れていたことや、他のラジオ番組にチャンネルを変えればニュースが真実かどうか確認が幾らでも可能だったことから、ほんとうに火星人の来襲があったものと思って慌てふためいた人は全米にそれほどいなかった、と言われています。

火星人が恐くて泣いてしまった子供がいたり、そんな子供を見てドキッとした大人たちもいたでしょうが、番組を聞いていれば、しばらくして「フィクション」だと真実を知る(騙された!と腹をたて怒った人が多いだろう)でしょうし、誰かに電話で問合せたりするなど、事実確認をする人が大多数だったために深刻な社会不安に発展することはなかったと言うのが現実の事件の顛末だったのです。

ラジオ番組で群集がパニックになったといった噂話は、恐らく日本人のかなりの人が知っている事件でしょうが、実はそれが深刻な社会不安とならなかった、ということまで知っている人は、余り多くないのではないでしょう。

「えっ!そうだったの?」と思ったアナタ! すでにデマに踊らされる予備軍となってますぞ!お気をつけを!

では、この誤った認識は何が原因だったかと申しますと、後年、ゴシップ好きのマスメディアがこぞってこの事件を「火星人が来襲すると信じた人々が慌てふためく模様」だけを断片的に面白可笑しく伝えてしまった結果、副産物として多くの人にパニックだけが誇張され記憶されてしまったのだと思うのです。

事実、ラジオ放送の翌日、火星人来襲騒動は、格好のマスコミの標的となって全米で報道されました。
この報道によって、仕掛け人のオーソン・ウェルズは、才能が高く評価され、映画会社から破格の待遇で仕事の依頼が舞い込み、映画「市民ケーン」を撮ることになりました。結果として、マスメディアの報道が宣伝となり、彼に人生の転機をもたらしたことは、火星人来襲騒動の顛末と一緒に語られることはほとんどありません。

さて、この事件を通じ、学者の間に言われたことは『人はメディアの報道によって騙されやすい』ということです。

当時ならラジオ、今ではテレビなどのマスメディアは、多くの人たちがほとんど無警戒に信頼している情報伝達手段となっています。火星人来襲は、そのことに警鐘を鳴らした事件と言えるでしょう。

しかし、現実に集団パニックに似た現象は日本で起っています。

最も有名なのが昭和48年の石油ショック(オイルショック)に伴う「トイレットペーパー買占め」騒動です。
恐らく、時系列でこの騒動を追ったブログの記事などもあるでしょうから、具体的な経過は自分でググって調べて下さい。

大阪?だったかに端を発したトイレットペーパー騒動は、1973年10月31日に起こりました。

ちなみに、火星人襲来と、トイレットペーパーの両事件の日付が似通っているのは偶然の一致なので、余り気にしないで欲しい。

現在では、災害時に良く言われるような「パニックは発生しにくい」との説もあり、私も少なからずこの説を支持しています。

「パニックが発生しにくい」は学術的には「正常性バイアス」と呼ばれます。
正常性バイアスについては災害心理学の著書がいくつかありますので、そちらを読んでください。

日本でも過去に自治体の地震や津波警報で誤報を流してしまったケースも幾つか報告されていますが、「誤報で自治体に問合せが殺到」とニュースになっても、実際の問合せ件数は思ったより少なく、誤報と知らずに聞いた住民が慌てふためく・・・といった場面は余り見られません。

それは、現代社会では、テレビやラジオなど、複数のメディアで災害情報が流れているため、住民がそれらの情報が本当かどうかを他のメディアで容易に確認できることが大きいそうです。

また、2004(平成16)年9月に津波警報が発令された紀伊半島沖地震では、三重県の調査によると、津波の危険地域に住んでいる住民の7割以上が、地震直後に津波が来るだろうと思っていたにも関わらず、実際に避難したのは21%という報告がされています。

すぐに避難行動を取らなかった住民の半数近くは「テレビやラジオで確認しようと思った」と言うような回答だったそうで、テレビといった広域メディアによせる無条件の期待と言うのが高いことを伺わせる苦笑せざるを得ないエピソードです。

しかし、テレビは広域をカバーするために、実際の災害時には、当時者の身の回りで起っている細かな情報は報道されにくい欠点があります。

デマは、テレビなどから自分にとって必要な情報が得られないという「情報の少ない中」で、自らの立場や境遇などから心の中で色々とつじつまを合わせようと考えた時に生まれる都合の良い妄想や嘘だったり、ニュースや誤報がまことしやかに伝わってしまうと言ったケースも想定されます。

しかしながら、こう言ったデマや流言が、大きな社会不安や混乱という集団パニックを引き起こす事態にまで発展するようなケースは、現代社会では、メディアの影響が大きいために、起こりにくいのは確かなように感じます。

もっとも現実に起りやすいデマというのは、恐らく、メディアで報道されないことが原因で発生するもので、その被害はごく小さなものです。しかし、当事者にとっては、デマの被害は迷惑であり、看過できない事柄であるのは当然です。

阪神大震災の住民の知識不足のつじつまを補うために広まったデマ  [編集長コラム]

1995年1月17日、神戸に大地震が襲いました。阪神淡路大震災です。

震災で罹災した当事者やその家族以外の人の多くは、「阪神震災」というと、まるで戦後の焼け野原のようになった神戸市長田区の火災の場面しか思い出せないのではないでしょうか。

これは、できるだけインパクトのある映像を撮るためにテレビ各局がこぞって、最も火の勢いが強かった長田区を中心に報道したための副産物なのです。

その副産物の状況をたどってみましょう。

消防庁の調べによると、地震から10日間に4府県で285件の火災が発生しました。

約半数が発火原因の調査ができずに不明となっていますが、判明した残る139件のうち実に6割以上の85件が「通電火災」だといわれています。

通電火災というのは、住民が慌てて避難した時に、家のブレーカーや家電製品のスイッチを消し忘れ、電気が復旧した時に、消し忘れの電化製品などが発熱し何かに引火する火災です。人のいない場所で起るために、火災に気付くのが遅れて大規模な延焼火災に発展する可能性があります。

電気というのは、ガスや水道と異なり、外に配線されているので破損箇所が確認しやすいため、災害時には比較的に復旧の早いライフラインです。

ところが、避難所に避難するときに電気ブレーカーを落とさなかった住民もいたため、阪神震災では、電気が復旧した時に、倒壊した家や一部破損している家屋のスイッチが付いたままの電化製品にまで電気が流れて「通電火災」が同時多発しました。

地震直後の一次避難の時には近所で火災が一件も発生していなかったのにも関わらず、いざ、一時避難先から家に帰ってみたら、人気のないはずの自宅から火と煙が出ていたのを見た人たちの間から「放火犯が潜んでいる!」と噂になりました。

震災の被災者達に追い討ちをかける卑劣な放火犯の存在が噂になり、一部の被災者たちは恐怖でちょっとしたパニックに陥りました。自警団を組織して犯人探しをしようという動きもあったかもしれません。

実際にはこれらの火災は、通電火災が原因で、あえて放火犯を探すとなると、電気をつけっぱなしにした本人達が犯人だったということになります。

一般的には災害で自宅を離れる時にはブレーカーを落とすなどは常識の範疇なのですが、これら常識を知らなかった人たちは自分達の無知を棚上げし、不幸な境遇と火事という現実を照らし合わせて、無理やりつじつまを合わせて自分達を納得させる結論として「放火犯」を空想しました。

これがデマの第一歩です。

阪神震災では運良くデマが広がる事態には発展しませんでしたが、しかし、一つ間違えば、彼等は自警団を組織し、無実の誰かをまるで犯人扱いしてしまう恐れのある危ない状況だったと思われます。

多くのパニックの原因が、極限状態の中、知識も情報も少ない状態から、自らの置かれた状況を納得させるために、憶測で適当につじつまを合わせしてしまうことから発生するデマの典型的な例と言えましょう。

もっとも多いデマ「期日の不明な情報」  [編集長コラム]

具体的に、災害時に最も起りやすいデマをお話しましょう。

昔話になりますが、私の家族は、阪神淡路震災の時、神戸市東灘区に住んでいました。
私は当時、関東地方の神奈川県逗子市(実家)と横浜市緑区に住んでいました。

震災後に電話が全くつながらず、安否に関わる情報を調べようにもテレビやラジオから流れる断片的な報道だけ、家族が生死が不明な状態の中で、情報のとりようのないジレンマの渦中にいたという、貴重な体験を震災後しばらくの期間身をもって経験しました。

この時、断片的なテレビ報道では安否が絶対に分からないために、当時、200万人という会員がいた大手パソコン通信ネット・ニフティサーブを活用することを思い立ちました。

結果としては、私の発信した情報が「役立った」として、その後、数名(会社)の人々から直々にお礼状が届くことになりますが、私個人としては、他者から投稿された情報が役に立ったというのは残念ながら一件もありませんでした。

参考までに、1995年1月17日午前中に私がニフティサーブ(FQUAKE)へ投稿した実際のメッセージは以下のようなものでした。

タイトル:神戸市東灘区5丁目近辺の安否情報他

1995年1月17日○時○分の神戸市東灘区住吉5丁目近辺の○○会社○○寮の○○さんからの情報です。

○○社の男子寮、女子寮の社員全員約100名以上は全員無事で、ただ今、女子も全員男子寮にて避難しています。
寮前にある○丁目○番の家全壊の○○さん一家4人は全員無事で、○○寮に避難しています。

(以下省略)

※当時のニフティサーブはクレジットカードにて本名確認が必須だったため投稿者IDで本名が誰でも検索確認できます。また投稿時にタイムスタンプ(時刻)が自動でタイトル横に表示されます。

なぜ、他の情報が一件も役立たなかったかというと、具体性を持った情報が見つからなかったからです。

ネットの情報で、注意しなくてはならないのがローカルルールです。

ネットワークは、誰もが情報を無秩序に配信できる媒体のために、ルールが明確でないと、主題のインパクトが強ければ強いほど多数の人から不要な情報が濫用される傾向が強く、また、不要な情報の多さに比例して情報に踊らされやすい状況を作ってしまいやすいのです。

何が悪かったかと言うと、パソコン通信は、200万人の会員なら誰もが自由に書き込める場であったために、例え阪神淡路震災を目的とした場所についての投稿文章であっても、誰が、何を、何のために書き込むのかと言った単純なルールでさえ曖昧でした。

そのため、震災を通じて個人個人の感想や意見を書き込む人が後を絶たなかったのです。

当時、震災直後のもっとも多かった情報は「大阪でも揺れました」「うちのテレビが壊れました」「道路ががれきで散乱して車のタイヤがパンクした」といった被害の比較的少ない地域の人々の地震日記といった内容で、稀に「○区在住の○○(人の名前)の安否を知っている人連絡ください」といった家族の悲痛な書き込みもありましたが、ほとんどの人が「自分の自宅は大丈夫でした(しかもその自宅は具体的にどこか不明)」と言いたげな感想ばかりが目立ったことです。

たまに、書き込みの内容から、断片的に役立ちそうな道路状況の情報が出ていても、誰かから聞いた伝聞情報なのか、本人が見た情報なのか、何月何日何時何分の情報なのか、はたまたどこの場所の情報なのか、などがはっきり明記されていないために、これらも、残念ながらほとんどが役立つことはありません。

そして一部の役立つ情報が、これらの無駄な書き込みにかき消されて、本当に情報を欲している人にほとんど届かない状態になりました。

正確にはこれらの情報はデマではありませんが、一部の書き込みは、その後、不特定多数により何度も何度もコピーされて使いまわされたりしました。

最初に投稿した人は、投稿時間により日時と投稿者が誰だか分かりますから情報ソース元に第三者が問合せする事も可能ですが、それが、二次・三次とコピーされるたびに、半ばチェーンメール化して、いつ、誰が書いたのか日時も問合せ先も不明瞭な情報だけが数週間も亡霊のようにさ迷いつづけることになります。

それらの具体例  [編集長コラム]

現実にあったこととしては、震災直後、寒空の中、物資の足りない被災者が食事や毛布、衣類など、当面の生活物資を欲しました。

具体例をいうと真冬だったため「停電の冬の被災地では、夜とても寒く、とくに衣類が足りないので送ってください」、翌日以降には「食料が足りない」といったチェーンメールが多発しました。

それに対し、震災後4日目以降から、各地のボランティアで作られた、おにぎりなどの食料品や、古着などの衣類などが救援物資が大量に被災者のもとに送られるようになりました。

阪神震災の場合、神戸という都市部を中心とした直下型地震だったため広域なインフラに被害が及ばなかったため、今回(2011年3月11日)の東北関東大震災ほどの深刻な支援遅れにはなりませんでした。そのため震災翌日からは被害の少なかった大阪方面などから、4日目以降には全国各地から物資が集まりました。

4日目、5日目、と日にちが経つにつれて、次第に物資も豊富に集まり出します。
すると、今度は、現地からの「古着は、もう十分です」「おむすび、お菓子(菓子パン)ではなく、野菜や温かいものを下さい」との声が全国に届かず、日を追うごとに大量に一部地区に「古着」「おむすび」「お菓子」が送られ続ける事態になりました。

結果として、余りにも大量に送られた「おむすび」は、現地で腐ったりしました。
当初はありがたがられた「古着」も、新品の衣類がたくさん届いた時点では誰も着ませんから、ダンボール箱も空けられずに放置されました。
色んな食料が支援され種類も豊富になると「おむすび」「お菓子(特に乾パン・カロリーメイト)」のような味気ない食べものは被災者は誰も手をつけなくなってしまったために、山積みになり、中には近所の河川に捨てられてしまっりしました(こう言った情報は報道されませんでした)。

例えば、震災直後、まだ物資不足だった18日頃に神戸入りされたボランティアの人が、18日現在に必要なものは何だろうと考えた結果「救援物資で衣類求む」「A型の血液を求む」といった内容の情報を流したとします。

しかし、この情報は18日には必要な情報でしたが、20日頃には物資も無事届き、現地では今度は「包帯」が必要になっていました。

しかし1週間以上経ってからも「A型の血液求む」という情報だけが生き続け、そのまま残ってしまい、この情報を見たり聞いた誰かが、善意で救援物資を集め、不要なA型の血液を大量に現地へ送りつづけてしまう。

この例は多少脚色していますが、これと似たような混乱は各所で見受けられました。

一度救援を求めた者に、善意で送る者に対して非難する資格はありませんから、求めたのなら、過剰に届いても喜んで受け入れる道義的な義務があると言えなくもないでしょう。
後に、被災地域外の人で、そのような「善意で送ってやったのにふざけるな」と匿名で意見を述べる心ない者たちもいました。

送った側に何ら罪はありません。求める側の方法に少し問題点があったのかもしれません。

しかしながら、こう言った「○○が足りないので欲しい」と言った現地の細かい情報は、テレビで放送されることはほとんどありません。
正確にいうと「○○が足りない」という報道は、避難所の人たちのテレビ局インタビューで稀に放送されます。しかし、その後、「○○はもう必要ありません」という終息の報道は、更に流れることはないので、「○○が足りない(○○が必要です)」という情報だけが、不必要な時期になってもいつまでも生き続けた事態にテレビ局も少なからず加担してしまっていました。

報道されない情報なので、テレビを見た人が、その情報の真偽やいつまでの必要なのか検証できる術はありません。だから、情報だけが、いつまでも噂として残ってしまうケースも多々あるということです。

この情報の混乱した様子(時間が経って不必要となったはずの情報だけが亡霊のように生き続けてしまう)というのは災害時には最も良くあるパターンで、これは一種のデマであると言えます。

余談(私のこと:読み飛ばし可)
震災当初、長田区の火災に占める報道の割合が高く、直接、甚大な被害を受けて神戸市東灘区の情報は、震災後一日以上たった後でも、広域避難所の小学校が稀にテレビに映るという程度でした。
ですから、そんなテレビ報道から家族の安否に少しでも関わる情報が確認できるはずもありません。

私は、震災当日、地震直後の朝6時前に、逆に、被災した神戸の家族から、関東の私たちに電話がかかって来たので、とりあえずの朝6時の生存と住居の倒壊を免れた、といった要点だけは確認できておりました。

その時テレビ報道はというとNHKですら「東海地方を中心に強い地震」とだけで、神戸は震度すらも分からない段階でした。

朝早くの電話で、たたき起こされた私は(不謹慎ながら)テレビを見ながら「東海地方なら神戸じゃないから安心だな」程度の認識しかありません。
結局、通勤時刻の7時過ぎても、死者が出ている、や、火事、の報道はなかったので、家族のことは特に気にしていませんでした。

ところが、その後、会社で震源が神戸などと訂正されるようになると、火災の映像と一緒に、数百人レベルで死者数も増えていき、「今、本当に家族は生きているのか?」とだんだん不安な気持ちになりました。神戸から連絡も来なければ、私からの電話も不通だったので、連絡のとりようのない状況の中、辺り一面が火災といったショッキングな映像しか流れないテレビを見ながら不安ばかりが増大していきます。

地震から10時間以上が経過した夕方になっても状況は変わらず、家族の今現在の安全を確認できるニュースはテレビ報道の断片的な映像くらいで、漠然と想像し、祈るしかないという不安な数日を過ごすことになります。

一方、その時、家族はというと、食料の確保や、近所の被害状況の確認、避難家族の受入れ、近隣の住民を倒壊家屋から救助する活動、など地元でボランティア活動のリーダーとなっていたので「とても電話する暇なんてなかった」と後に聞かされました。

震災から一週間ほど経ても、関東では、日々増える死者数・行方不明者数の報道と併せて、悲惨な現地の様子ばかりがテレビで流れていました。

しかし、現地(一部の人たちの物資不足はあったかもしれませんが)では、たいへん失礼な書き方ですが、震災成金のような物資の飽和状態になっていました。

具体的には、新品タオルや新品衣類(ブランド品が多かったそうです)が一人当り何十着分と豊富になり、水は断水していたので洗濯できませんから(生活は不便なのは変わらない)、毎日、ブランド品の衣類を着、新品タオルで体などを拭いて、それらを毎日毎日捨てていたそうです。もったいないですけどね。

情報の鮮度と価値  [編集長コラム]

デマや流言が非常に厄介なのは、それを流している本人に悪気がないために、デマや流言の広がりに自らが荷担していることに全く気付かないケースがほとんどだからです。

何故、自らがデマの一翼を担っていることに気付かないかと言うと、それはデマや流言そのものの本質を多くの人が理解していないからです。

一般的にデマや流言というと「来週、関東に巨大地震が襲ってくる!」といった種類の、誰が聞いても、一目で非科学的で根拠のないような情報であると思いがちです。

実際、昭和の後半に小学生を恐怖に陥れた「口裂け女」という得体の知れないデマが流行したこともありました。大人たちは「こんなデマなんか」とあまりのバカバカしさに「自分は大丈夫!」と踊らされない自分に自信を深めたかもしれませんが、しかし、こう言った情報源の定かでない非科学的なデマは、災害時にはびこる本来の流言やデマの本質とは、大きくかけ離れたものであることを知っておいて下さい。

片隅に覚えておいて頂きたいことは「情報の鮮度と価値」ということです。

情報は生き物とはよく言われます。それは、情報を発信する人と情報を受け取る人の両者が、その情報によって何らかのメリットを享受するからです。

しかも、同じ情報であっても、時間、その人の立場や環境など、多くの条件で情報の価値は大きく左右されます。場合によって、まるで生き物のように同じ情報が、全く正反対の意味に変質し伝わってしまうかもしれません。

例えば、私が「今なら半額セール中!」とお店の宣伝をするとします。

その宣伝を見た人が、来店し、お客さんになってくれればお店の宣伝は大成功ですね。

お客さんの立場に立つとと、欲しかった商品を、しかも安く手に入れることができたのですから「嬉しい」気持ちになるでしょう。

つまり、情報を配信した人と受け取った人の双方が、その情報によって、何らかの利益を得たことになります。

結果として「価値ある情報」だった訳です。

しかし、この情報には「今」という時間的な条件が設定されています。

宣伝を出した私にとっての「今」と、お客さんが考える「今」という時間が同じなら、お客さんはセールに間に合いますが、もし、数ヶ月以上前に出された宣伝を、たまたま今、お客さんが受け取ったのなら、お客さんはセールが終わった後に来店することになります。

この場合、お客さんにとっては情報に価値がなかったことになります。

しかも、わざわざ来店までしてしまったお客さんは、意中の商品を手に入れられなかった訳ですから「損した気分」になるかもしれません。

つまり、情報によりマイナスのデメリットを受けたのです。

私も、成功すると思って高いお金を出して宣伝をしたのに、せっかくのお客さんを逃がしてしまい、宣伝は失敗、頭を抱えてしまうかもしれません。

この場合、私たちは「今」という曖昧な情報に、みごと踊らされてしまったのです。

さて、皆さん、あなたの家族が災害に巻き込まれました。連絡も取れない。

心配で、気が気でない貴方に必要な情報というのは一体どういう種類でしょうか?
(一番は家族の安否の確認であるのは言うまでもありません)

そのような非常時において、多くの人にとって有用・有益な情報というのは<事務的な情報>が重宝されるのです。

具体的な例をあげると、腹をすかした者に本当に必要な情報とは「○○で何月何日何時に炊き出しがある」という事務的な連絡であって「あそこの炊き出しが美味しかった不味かった・・・」といった感想ではありません。

ところが、世の中の情報の多くには、後者のような、常に発信者の恣意的な感情や意見が混じっています。

例えば「あそこのラーメン屋はうまい!」という情報は、個人的な感想であったり、店が故意に流した宣伝だったりするかもしれません。

情報をもとに、店にいってみたら、貴方は不味いラーメンを食べることになるかもしれません。

つまり貴方にとって事実とは異なる嘘の情報だったということです。

ところが、この情報自体には、個人の感想が書かれているだけで、その他に何らおかしなところは一切ありません。

その為、このラーメン店の情報を知った人が、善意で、もっと多くの人に知ってもらいたいと情報を第三者に伝えれば、それがデマや流言の発生に繋がる可能性が生じます。

しかも、悪いことに、こうした情報には、受け取る側(情報を聞いた人)の理解度や、情報を配信した人の教養やボキャブラリーなど、多くの事柄から情報の価値が均一とならない反面、だれもが直感的に受け入れ易い性質の簡単な情報であればあるほど、複数の人の耳を経るたびに、次第に情報に尾ひれが付いてしまう、という厄介な問題も派生します。

災害時において、情報がデマや流言になりやすいのは、まさに、生命に関わるような事柄なので、多くの人が直感的に興味を引かれ易いことと、多数の人から人へと短時間に情報が変質して伝わっていくという条件が重なるからです。

ここからちょっと、話の内容は難しくなりますが、なるべく簡単に書きますので、どうか最後まで付いて来てください。

情報を第三者に伝えるのは難しいと知る  [編集長コラム]

ある情報を、家族や友人以外の第三者に正確に伝えたい。

でも、情報を正確に伝えるのはとても難しいことなのです。

それは、情報を伝えるためには、情報を伝えたい誰かに、ちゃんと聞いて理解してもらわねばならないし、しかも、情報は生き物のように、例えば話した時間など多くの事象によって、多くの制約を受けるからです。

過去、本当にあった事例を少しアレンジして紹介しましょう。

在来線の列車が事故の影響で幾つかの区間で運行がストップしました。

駅では急遽、構内放送で乗客に知らせることにしました。

「○○駅、××駅・・・△△駅、以上の区間は、事故のため×時現在、列車の運行が停止しております。」

アナウンスが流れた後、改札口には、問い合わせを求める乗客が押し寄せパニックとなりました。

乗客達は、構内放送の内容を聞き流してしまい、正確に情報を理解することができなかったのです。

では、いったい放送のどこが悪かったのでしょうか?

この場合、情報の伝え方の順番が悪かったのです。

本来なら

「事故により以下の区間で運行を停止しております。停止している区間は次のとおりです。○○駅、××駅・・・△△駅。」

と伝えれば、情報を聞き逃す乗客は少なかったはずです。

乗客は、自分の降りる駅の名前が先に呼ばれても、何が自分の身に起こったのかというデメリットやメリットが生じない限り、情報自体に興味を覚えません。

「事故で運行停止」と聞いた時に、初めて、自分に関係がある内容だったかもしれないと慌てても、その時は既にどこの駅だったか放送を聞き逃してしまい、慌てて改札口に問い合わせに行ったのでした。

駅の構内放送やNHKのニュース、そういった緊急情報では、実は上記のような順番で情報を伝え、しかも間違いがないように何度か繰り返すようマニュアル化されています。

上記の例にもあるように、情報を伝えるのがとても難しいのは、貴方が思い描いたように相手側に100%理解して伝わるとは限らないからですね。

また、特に知っておいていただきたいのは、情報に「貴方の感情(感想)」が加わると、正確に伝わる可能性が限りなく低くなるということです。

感情とは、貴方がその時どう思ったのかという感覚ですから、他人が貴方と同じ感情を理解して共有してくれる道理もないからです。

しかし、世の中の情報の多くには、発信者の感情が加えられています。

感情が付け加えられた情報は「情報」ではなく「感想」と言います。

感想はその情報が極めて個人的なものなので、情報の真偽を確認するのが難しく、とりわけ非常時には、多くの人の利益に繋がる価値ある情報になるとはとても言えません。

例えば、裁判など判例の文書を読むと、とても奇怪な無機質な文章だと誰もが思うでしょう。

裁判では、読んだ人によって見解が異なるといった誤解を招かないようにと感情的で感覚的な表現の一切を使わないように工夫がされているからです。

また、文書や活字となると情報を伝える難しさのレベルは、より一層大きくなります。
なぜ難しいかというと、誰が、何時(いつ)、何のために、何をどこへ発信したか、という情報の信頼性や目的をある程度明確にしてからでないと情報というものは目的を失って一人歩きしてしまう危険性があるからです。

例えば、誰が、何時、この文書を書いたのか・・・と言った発信源の所在を表す情報というのは、実は文書にとって一番重要な要素なのですが、これらは訓練していたり、知識や知恵として書く側の身に備わっていなければ、なかなかルールとして徹底できるものではありません。

何故なら、書いた日付や、書いた人の名前は、「ラーメンが旨かった」という情報そのものが本来伝えるべき内容や意味と、直接的には全く関係がない2次的な副次情報だからです。

会社では常識的なことであっても、日常生活で使うことはあまりないでしょう。

でも、考えてみてください、もし、日付が抜けた文書だったら、その内容は1年前に書かれたものかもしれないし、例え情報が事実だったとしても、そのラーメン店は1年前に閉店しているかもしれません。

この場合、その情報を受け取った側が期待するのは「今現在、旨いラーメンが食べられるかどうか?」がポイントとなりますから、時間切れの情報を受け取った人にとって全く価値がない情報だったことになります。

つまり、情報の価値には、誰が、何時、何のために、誰に向けて、何を配信したのか・・・といった要素が必要不可欠なのです。

既にこう言ったルールが半ば欠けてしまった文書では、最初に書いた人の手を離れると、文書の内容だけが急速に一人歩きをすることとなって、本人も予測できない流言やデマの苗床となる可能性があることも、心の片隅に覚えておかれると良いでしょう。

政府や自治体など「デマ(チェーンメール、不確かな情報)に踊らされないように注意ください」とよく言われます。

でも、<デマとは何か?>を本質的に知っている人は、非常に少ないのではないでしょうか?

本質を知らなければ、デマに踊らされないように注意していても、結果として踊らされることになるでしょう。

だって、あなたにそのデマの情報を信頼する友人や家族から知らされるのですからね。
信頼する見知った知人からの話しが嘘であるとは誰も思わないでしょう。

デマは一人一人が「デマの本質を知って、出さないように常に注意する!」ことから始めなければ、いつまでも尽きることがありません。

特に、災害時のデマというものは、人の命にかかわる可能性もあるので「デマに踊らされない、デマを流さない」がとても重要です。

人は、何かあったときに「私も同じ思いだった」といったように誰かに話し感情を共有したい衝動に駆られます。

だからと言って、その感情が公共や公益の福祉の場で役立つかと言えば、それは、ほとんど役に立ちませんし、どちらかというと混乱のもとになる可能性があります。

だから、あなたが、何かしらの有益な情報を手に入れて、どうしても発信しなければならないと感じたときには、感情をこらえて、できるだけ無機質な事務的な文章にするよう心がけるのが情報を第三者に伝えるために有効な手段となります。

補足として:感情を抑え情報を正確に伝えるには  [編集長コラム]

感情と情報について補足しましょう。

例えば、電子メールで知らない人とやり取りすると、ちょっとした文面や言葉じりの違いなどから、メールをやり取りしたどちらかの人が不機嫌な思いを抱くかもしれません。

でも、お互い外で会って話すと、身振りや手振り、顔の表情、何より、言葉のアクセントなどが手伝って、きっと行き違いは電子メールで話すよりも少ないはずです。

<情報>を科学的に考えれば、情報は何も言葉だけではなく「顔の表情」も含まれるでしょうし、また、相手の服装や話した場所の雰囲気など、あなたがその時に感じた感覚全てが情報の一つを形成していると言えます。

つまり良く見知った親友と話すのにストレスを感じることが少ないのは、親友と話す時には、言葉の情報以外に、親友という人間を信頼する気持ちが、情報の価値(=信頼すべき情報)として、貴方が受け手側として無意識に理解しているからですね。

ところが情報そのものは、<単なる言葉(記号)>に過ぎません。

言葉そのものは、知識や経験がなくても、誰もが「話し」「書く」ことができる日常的な行為です。

でも、普段の日常でも、言葉のちょっとした行き違いから、言い争いに発展したり、と、言葉という情報は、受け取る側が他人なので、常に伝え手側が意図した結果になるとは限りません。

言葉が誰もが簡単に使えるが故に言葉がデマを冗長する大きな要因となるのです。

また、前述した様に、人は面と向かって誰かと話した方が文書でやり取りするよりも遥かに楽です。

それは、話したときに、目で見るなど五感をフルに活用して感情的に良い方向に意識が働くことで、比較的に情報交換がスムーズに進行するためです。

また、人は無意識にどこか人を信じたいという気持ちが強いですから、一人暮らしのお年寄りの家に訪問した投資詐欺で、面と向かって「ほら、もし金を買ったらこんなに重いんですよ!」と相手の手のひらを触りながら、スキンシップをする、といったマニュアルがあった・・・というよな話を聞いたことがありますが、これも、受け手側が情報を信頼しやすい様にと、人間の情報心理的な性質を利用したものだと、犯罪者ながら妙に感心してしまいまう逸話です。

人は言葉よりも感情が先に立ちます。

感情なくして人生は生きられないとでも言えるでしょうか・・・。だから、感情を抑えるのは大変です。

それ故に第三者に情報を伝えようとする時、感情を極力抑えながら事務的な文章を書こうと思うには、それなりの日々の訓練が必要です。

でも、訓練は簡単です。

情報を伝えたい相手(第三者)がどんな人かな、と漠然と頭に描きます。

そして「業務連絡」と心の中で唱えながら、思い描いた相手の人の立場になって、伝える内容をできるだけ細かく箇条書きで1個づつ書き出します。

事務文書によくある「拝啓」「敬具」とか季節の挨拶なんてものは要りません。

そして、箇条書きを見ながら、最初に思い描いていたことを簡単に文章にします。

この文章は箇条書きの項目への補足説明となりますので、どうしても感想や感情を交えたい場合は、この文章の文面に入れるか、もしくは、追伸として文章の最後に入れれば良いでしょう。

最後に日付と連絡先を記入すれば、まあ不思議、立派な事務連絡の出来上がりです。

以上、2011/3/16 9:00〜13:33にかけて。
店長:平井

| 日本人間工学会正会員(専門は安全性工学)、防災士、IM(In​formation Mapping)法(文書を伝える能力の専門資格取得)、ついでに英検3級(笑) |。

<編集長 拝>

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